放浪の末の霞んでしまひけり
旅と言えば、新潟にゆかりのある俳人、井上井月がいる。
彼は江戸から明治にかけての激動の時代を、放浪の旅を続けながら作品を残した。
彼は、越後国長岡藩出身であったのではと推測されている。
雪車(そり)に乗りしこともありしを笹粽 井月
彼は30代頃、故郷を捨てて長野県の伊那へ放浪の旅に出た。
書も上手く、俳諧の嗜みを持つ井月は、現地の文化人に歓迎された。
彼は芭蕉を尊敬し、芭蕉の俳文「幻住庵記」を諳んじるほどであった。
住まいを持たない彼は伊那の家々を転々としながら、柔らかく、温かく、また現代人にも通じる情緒をたたえた俳句を詠んだ。
遣るあてもなき雛買ひぬ二月月 井月
彼は何度か故郷の長岡へ帰ろうともした。伊那の人々もそれを勧めた。
しかし、どうしても彼は帰る事が出来ず、途中で伊那へ戻ってきてしまうのであった。
もしかしたら、幕末の戊辰戦争が彼の心に暗い影を落としたのかもしれない。
長岡では戊辰戦争の激戦の一つ、北越戦争が行われた。
この戦いで、河井継之助率いる長岡藩士達は新政府軍に破れてしまった。
長岡藩の非常事態に放浪の旅をしていた自分が、今さら長岡へ帰っても到底受け入れてもらえないのでは。
何処やらに鶴の声きく霞かな 井月
冬のある日、井月は、道で生き倒れになっているところを伊那の人に発見される。
看病を受けるも、1887年(明治20年)3月10日、66歳で亡くなった。