2017年6月30日

雨が声あなどると七月が来る

世界は肯定されていい。
それは世界が「意味」として隙間なく構成されているからではなく、むしろ世界はすかすかだからだ。そこでは、見えているもの以上の何かが反日常的な「意味」を新たに生成し、それによって潜在化していた多様性を浮かび上がらせる。いまいる私が、私以上のものに変化する可能性は、この多様性に支えられている。

いま世界がずたぼろに見えていて、だめだめな自分をいためつける救いようのない人生が広がっていたとしても、そこには自分を奮い立たせる反日常的な「動機」が必ず与えられている。よく見れば、自分を苦しめているものと、自分の生きるモチベーションを支えているものが同じであることに気づく。

そのような「動機」に出会うために、人は「書く」のではないか。
いま「何を」書いたらよいのかわからないとしても、そのような「何を」に先がけて「書く」という行為は、肯定的に「出来事」を呼び起こす。「書くこと」はそこに何かしらの領域をひらく。そこには、あたかも客観的な立ち位置があるように感じるけれど、むしろそれは錯覚で、もうそこに与えられた立ち位置以外は用意されておらず、常に「出来事」に巻き込まれていて、それゆえに、大事なものは何も見えていない。

けれども何度も書いたとおり、この「見えなさ」こそが、ポジティブな世界へと開かれている。「見えないこと」は、「見えないものが、見える」という形に転化され、それによって「見えないこと」の輪郭が顕にされる。だから言うなれば「見ること」は「見えないものを見ること」だし、「書くこと」は「書けないことを書くこと」に他ならない。

「書けないことを書くこと」これは、つまり「書けてしまったこと」なのだ。自分でも「何を」書いたらよいかわからないときに、ひとまず「何か」を書きはじめたら、思いもかけず「書けてしまった」。それは、それまで自分の中に無かったものだし、自分のまわりに「見えていた」ものではない。不思議なことに、それは「書くこと」によってそこに生成されたもので、どこかから与えられたものだ。

その「書けてしまう」ことこそが、「世界が肯定されて」いることなのではないか。「できてしまう」ことこそが、自分が知っている自分以上のものに出会う瞬間なのではないか。それこそが、私が私以上に変化するという出来事なのではないか。

世界は肯定されていい。それは「書けてしまう可能性」であふれている。
それはすべての人の中にある自分自身の天才性との出会いだ。

あなた自身をあなた以上のものにする、小さくて見逃してしまいそうな「出来事」を侮ってはならない。