1990.2 沖積舎刊行
『原石鼎全句集』より。
最寄の駅には毎年燕が帰ってきてくれます。今年も一ヶ月以上毎日燕を眺めては楽しんでいたのですが、とうとう全て巣立ってしまいました。毎年だけれども、ある日突然巣が空っぽになっている、という喪失感を味わいました。
巣立ちはめでたいことですが、居なくなってしまった、居なくなってしまった…。とその日は少し寂しい。
これが、母の、気持ちでしょうか。僕が卵を産んだわけじゃないけれど。
では石鼎の続き。大正12年の石鼎は、調子が良い、よく知られている句もちらほら出てきます。
孕み猫われをみつめて去りにけり
いや、僕は父じゃないよ。
白魚の小さき顔をもてりけり
あるはある。
見えながら暮れゐる富士や雪の原
大きな富士が暮れてゆく。
雨を来し人の臭ひや桜餅
雨のにおい、というのはある。
干物の裏這ふ蜂を怖れけり
突然いるから怖い。石鼎びっくり。
腐りたる蕾もありし牡丹かな
大きなあわれ。
風鈴や糸のほそさに音すめる
品の良い風鈴。
水打ちし苔に日当る祭かな
苔もわっしょい。
なかなかの屁ひり虫にてありにけり
なかなかでござった。
秋晴の大地震とはなりにけり
呆然。繊細な石鼎のショックは大きかったでしょう。
黄なる脚赤なる脚や吊し鴨
鴨はあんなに可愛いのに、美味いから食べられてしまう。
くもり来て空ばかりなる梅林
とても、どんより。
石鼎は俳句の調子が良くなったり悪くなったりするように思えます。そんなところも面白い。
じゃ
ばーい