2016年6月24日

あぢさゐや忘却は巨大なひかり

20160624

ずいぶん前に祖母は認知症になった。一時的ではあるがわたしの名前が思い出せなくなったときはやはりショックで、ほにほにまいったじゃ、と笑いながら、お手洗いへかけこんで静かに泣いた。れいちゃんですよ!れー、ちゃん!二十歳になりました!と何度か言うと、顔をぱあっと明るくして、んだんだ、れえちゃん!はぁー、ほにほに、おっきぐなって!と手を握られる。ETみたいな手。おばあちゃん、年取ったねえ。

しばらく経って祖母はすっかり、ぽやあ、としてしまった。ある日久しぶりに会いに行くと祖母はわたしの名を覚えていたが、しばらくするとわたしを母の名で呼びはじめた。おもしろい、と思う。祖母はいま、おばさんになった娘と同時に21歳だったころの娘にも会っているのか。過去からタイムスリップしてきたような気分になる。
目をくりくりさせて窓の外をじっと見つめているおばあちゃんに、「ねえ、おばあちゃん昔ラディッシュの酢漬け作ってくれたでしょう、あれ好きだったこと思い出してスーパーでラディッシュ買ったんだども、あれ、なんじょして作るんだべ?」と話しかけてみるものの、返事はない。忘れたか。そりゃそうだよなあ、わたしもたまたま思い出したくらいだし……と思っていたら、突然「あったなの簡単だべじゃ、包丁で細げぐ切れ込み入れで、らっきょう酢さ漬けどくだけだ」と一息で言うので、わたしは呆気に取られたあと笑ってしまった。ほかのいろんなことを忘れているのに、ラディッシュのことは覚えているのね。給食のおばちゃんをやっていた、祖母は働き者だった。

老いることは恐ろしく切なくかなしいことだけれど、忘却は救いでもあるような気がする。忘れてしまいたいことも人生にはきっとたくさん起こるから。まるで宇宙服を着ているようにゆっくりと動くお年寄りを目にすると、愛しく、なんとなく安心する。わたしには老いるまでまだたくさんの時間がある。忘却の巨大なひかりに呑みこまれたとき、それでもわたしが語りつづけることはいったい何だろう。