2016年8月29日

馬川(むまかは)や呼(よ)びかはすとはたふとけれ

栗原という名の友人がいた。たしか僕とは保育園から中学まで一緒で、高校に入ってからは疎遠になってしまったけれど、今でも彼の人懐こい笑顔を思い浮かべることができる。なのに、なにかの拍子に子ども時代を思い出そうとしたとき、たしか「栗原」は「くりはら」だったと思うが、「くりばら」だったかもしれないという疑念が頭をよぎるようになったのは、いったいいつからだったか。
くりはら、くりばら、どちらで呼んでも彼の容貌や声や、その佇まいについての記憶そのものはあまり変わらないし、きっと僕は彼と再会したら相変わらず屈託のない顔で話をして別れることだってできるような気もする。というのも、彼のことを僕は下の名前で呼んでいたので、昔のように呼びさえすれば「栗原」の発音を僕が忘れてしまっていることを彼に知られなくてすむのである。
こういうことが僕にはたくさんあるようだ。