2016年8月31日

牛峰(うしみね)を夜毎(よごと)(な)きたる飴(あめ)の玉(たま)

かつて誰かが僕に名をつけたということは、これほど確かな事実はないが、それがどれだけ確かなことであろうとも、なんだか不思議な感じがする。それは、僕はその当事者であるのにもかからわず、その確かなことをついに自力では思い起こすことができないからなのかもしれない。僕にはまるで思い出せないことだが、僕には今すでに名がついてしまっているので、その確かな事実を拠り所にして、誰かが僕に名を付けたのだろうと推測するしかないのである。
一方で、僕たちは誰かの名を忘れてしまうことがある。自分の名が忘れられてしまっているらしいことに気づき、さびしい思いをした記憶のあるのは僕だけではあるまい。しかし、考えてみれば、僕たちが誰かの名を忘れるときは、その誰かに名がつけられた事実の確かさが揺らぎはじめるときなのかもしれない。