2017年1月2日

快楽以後紙のコップと死が残り

散文を警戒し過ぎては純粋な詩は生れない。散文的な思想を懼れていては詩の思想は形成されない。逆説めくが、今は散文が詩人の霊感とならなければならないのだ。「詩以外のものを何等含まない詩を構築することは不可能である」とヴァレリーは言っているが、それは詩作行為の、おそらく純粋詩の内部作用について語っているのだろう。しかしそれは又古い詩精神に対する一つの抗議ともとれる。現代詩を風靡している懐古的な思潮に私が牽引されないのは、そこはあまりに「詩」が充満していて「散文」が少しも無いからだ。若し散文が失せたら世界はどんなに寥しいだろう。詩人はもはや詩を書く気がしなくなるに違いない。  小野十三郎『詩論』2