2017年1月3日

賛美歌のどこまでつづく塀の上

短歌の世界はたしかに独自な世界である。しかし歌の世界が持っている美の先験性乃至は詠嘆の先験性には時々強い反撥を感じる。私は句作の真似ごとみたいなことはしたことがあるが、短歌というものはまだ一度も書いた記憶がない。私は昔からふしぎに短歌が嫌いで、それにも増して歌人という人間の型が嫌いであった。ところが詩人だとか、小説家だとか、画家だとかいう人は大抵皆若い頃は短歌の愛好者であって、又一度は必ず自分で歌のようなものを作っているようである。私の如く短歌に対していきなり生理的反撥を感じたような者は極めて稀であろう。
啄木を少し読んだこと位が異例だが、周知のごとく、その啄木の歌自体は生活短歌とか何とか言われた異例に属するものであって、当時に於ても啄木などに感心している者は短歌の読者としてはまず素人と考えられていた。やはり牧水、赤彦、利玄、茂吉などを知らずして短歌について語る資格はなかったのである。
しかし、その私が、短歌だけは書きたくないという頼まれもしない意志表示を誰かに向ってやりたくなるのだから不思議である。
人はよく、自分は短歌も好きだけれど、やはりあきたらぬなどと言ってすましているが、こういう気持ちや育ちのいい享受の仕方にも、私は又反感をおぼえる。私がこの詩論に於て屢々触れんとする思想はすべてこの私の短歌憎悪に端を発していると解していただいて差支えない。  小野十三郎『詩論』3