2017年2月22日

文字を感じて消すまたたきはきさらぎ

高校生の時までは、どこか俳句の型に書かされていたような感じがするが、東京に出て、色んな俳句を書く人と関わる中で自分がどんな風に俳句を書きたいかを考えるようになった。「高知を捨てた」と地方に住む人からは言われることもあるが、高知でお世話になった俳句同人誌「蝶」の方たちには感謝している。けれど、俳句を「書く」ということに自覚的になったのは東京に出てからである。

高校の時は時々学校に教えに来てくれた「蝶」の味元昭次さんが“書きたいことを書きなさい”ということだったので、よく言われる高校生らしさとかは気にせずに、自分の考えていることをのびのび表現していた。どこから俳句の型を学んだかというと、いろんな人の句集から。俳句同好会の中には女性俳人の句が好きで、したたかで艶っぽい句を詠む後輩の男の子や黛まどかさんが好きだと言っていた同級生の女の子、自然体を考えていた理系男子、金子兜太好きのひ弱な男子など、みんな全然違っていた。

「コミセンの舞台立とう!」と俳句甲子園はかなり本気だった。俳句甲子園で勝つためにはどうしたらいいんだろうと春から夏にかけてはかなり考えて、島田牙城さんに「多作多捨」の考えについて教えてください!とメールしたこともあった。しかし、俳句甲子園には出たが特に大きな賞は取らなかったし、優勝もしなかった。高3まで続けたけどいい成績も残せず全部終わっちゃった、とその時は今までの行いが全部水の泡になってしまった気もした。けれど、引退してから、俳句甲子園の時期に味元さんに言われた「負けても死ぬ訳じゃないき好きにやり」の意味がわかるようになった。

もっと俳句をがんばりたかったので東京に行くことにしたというのは事実である。親には反対されたが、話し合いでなんとか説得して行かせてもらえることになった。味元さんが円錐に入っているというつながりで澤好摩と出会い、大塚凱に誘われたのと福田若之がいるという理由で群青に入った。紙媒体で作品を定期的に発表したいということを思っていた以外、特にこだわりはない。

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俳句甲子園がすべてじゃないですはっきり言って。でも俳句甲子園に出てよかったと思うこともあって、その一つに堀下翔や大塚凱のような作家と出会えたことがあります。今も俳句をやっていてよかったなぁと思うことは、「俳句」や俳句のかたちについて考えるのがどんどんおもしろくなることと、面白い俳句の書き手に出会えることです。お恥ずかしい部分もあるのですが、ひとりのサンプルとして、こんなやつもいるのかーとぼんやり思っていただけたらと思ってここに書きました。