2017年5月8日

横書の人民日報街薄暑

第1句集を刊行した昭和59(1984)年9月は、もう一つ大きなイヴェントがあった。中国の当時の最高指導者、鄧小平中国共産党中央軍事委員会主席によって、日中青年友好交流という大プロジェクトが敢行されたのである。さまざまな分野の日本の青年3千人を中国に招待するというもので、芸術・文学・スポーツ・大学生等々300団体から10人ずつが選ばれ、俳人協会からも参加することになった。団長・副団長(黒田杏子さん)は別として、西村和子・能村研三・和田耕三郎・皆吉司など20~30代のメンバーだった。私にとっては、結社外の人たちとの初めての親しい交流の機会ともなった。

9月の末から千人ずつ3団に分かれて出発し、別々のコースを回ったのち、10月1日には全員が北京の国慶節に集合した。その年は中国の建国35周年にあたり、大々的な軍事パレードが行われることになっていて、それを見せたいということでもあったようだ。北京空港に着いたら、市内までの数十キロを信号ノンストップというところから始まり、行く先々で驚くような歓迎を受けた。全国で1年がかりの準備が行われたとのこと、どこでもパレードや歓迎の催しが待っていた。万里の長城や兵馬俑、大雁塔などの観光はもちろん、学校や工場、人民公社の見学、西安では電力会社の社宅も訪問した。グループごとに通訳とそれぞれの専門分野に合わせた世話人が付き、私たちには北京大学出身の小説家、陳建功さんと通訳の楊さんがついてくれたが、彼らとは帰国後も付き合いが続いた。10月1日の夜は、日本の3千人と中国の要人、接待の人々などを合わせると4千人にもなったのではないかと思うが、人民大会堂で大晩餐会が開かれた。写真を見ると、小説家の立松和平さんや、大相撲の先代貴乃花もいる。