2017年5月9日

華清池のその後知らねど夏柳

33年前の中国は、まだ復興中という印象だった。北京での私たちの宿舎はオープン前の高層ホテルだったが、朝起きて窓の外を見下ろすと、自転車の渦だった。その後ずいぶん経ってから個人で中国を訪れたときはオートバイに変っていて、つぎには乗用車の渋滞となっていた。

当時の北京の裏通りには、中国映画に出てくるような昔ながらの人々の暮しがあった。

煙出しより煙出て秋の暮    由美子

こんな句が自然にできた。それまでの私は、国内でも吟行をほとんどしなかったが、実際に目にしたものがすっと俳句になる感覚をつかんだ気がする。余分な思い入れを排したとき、俳句は個人を超える。

西安の闇深きより火取虫    由美子

こちらは、西安での作。阿倍仲麻呂公園での夜の歓迎会もあり、長安の昔からの長い時間を思った。この句は「長安の闇深きより」のほうがいいと批評されたことがあるが、西安であるからこそ、闇を通って長安に結びつくのだと考えている。時空を超える俳句ができるという手応えもあった。集中的に俳句を作った初めての体験である。

あちこちで貴重なものを目にした。目の前に年配の纏足の女性がいたこともある。若い人たちは唐の詩など全く知らなかったが、ある年代以上の人たちは、我々が杜甫や李白の詩を書いてみせたりすると驚き、喜んでくれた。漢字を書けば、筆談で結構話が通じた。

帰国してから、中国の映画をいろいろ観た。最も感動的だったのは「芙蓉鎮」である。文化大革命で悲惨な体験をした人たちのことを身近に感じた。「古井戸」のような中国女性の凄まじい生活力を描いた作品もある。