2017年5月14日

夏霧や富士と呼ぶ山この地にも

鳥海山は火山特有の美しさで、緩やかな裾野が日本海にまで達しているが、1974年にも噴火した活火山である。俳人協会の秋田県支部には、有望な若手俳人が何人かいる。そんな人たちと久々に会えるのを楽しみにやってきた。今日の俳句大会では「俳句の文法」という話をすることになっている。私は文法にうるさい人間ということになっているが、俳句の文語文法というのは一筋縄ではいかない。許容範囲を考えなければならないところもある。最近はどこまでなら許されるか、ということを考えている。文法に無頓着な人の注意を喚起したいとも思うが、俳句らしさを成り立たせるための文語の必然性ということを話したいと思っている。
さて、実作以外に評論を書いてみようと思ったのは、「狩」に評論賞ができたからである。最初に応募したのは「俳句における上五の用法について」という形式論だった。俳句の型について初期から関心があったのだと思う。私の俳句論はあくまで実作者の体験に基づくもので、実作のためのものである。抽象論には関心がない。
俳壇で、俳句の本質論を書かせたら仁平勝さんを超える人はいないと思っている。「帚木」の句をはじめとする虚子論の鮮やかさには唖然とした。理路整然としていて、じつによく分かる。仁平さんの文章を読んでいると、こんなに頭のいい人がいるのかと驚嘆するのだが、なんだかこちらも少し頭がよくなったような気にさせてもらえる。逆に、俳句を論ずるのに西洋哲学を持ち込みたがる人や観念語を駆使することで煙に巻いているのではという人たちの文章を読むと、こちらがひどく頭の悪い人間のように思えてくるので、その手のものは読まないことにしている。