2017年5月24日

そら豆の句が口中にある思ひ

細見綾子さんは私の明治生まれの祖母とほぼ同じ年齢だった。初学のころ、地味な着物姿の細見さんを間近で拝見する機会がときどきあった。有名な句が頭に浮かんできて、その句を作った方が目の前にいることがとても不思議に思えた。

そら豆はまことに青き味したり
つばめつばめ泥が好きなる燕かな
チューリップ喜びだけを持つてゐる

など、俳句を始めたらいつの間にか覚えてしまうはずの句だ。だが、私はそうした作品がじつはあまり好きではなかった。大らかすぎるのか、何となくしっくりしなかったのである。細見さんは丹波の素封家のお嬢さんだったが、結婚したばかりで夫が亡くなってしまった。自身も結核で療養を余儀なくされるなど、若いころは苦労されたが、単純そうに見える俳句にそうした身の上はいっさい感じられない。細見さんの句が身にそうようになったと感じたのは、自分が年齢を重ねてからのことである。私が一番好きなのは

再びは生れ来ぬ世か冬銀河

という晩年に近くなってからの作品である。もう、自身の残り時間が長くはないことを知りながら、ストレートな思いを五・七・五で言いとめている。散文にしたら鬱陶しくなりそうな内容である。17音は短いようでいながら、この句を読むとそれで十分だと思う。季語が多くを語ってくれるからだろう。
短歌や俳句は短さが武器である。韻律の魔力といってもよいかもしれない。つぎの短歌も、私が愛唱している1首である。

杖ひきて日々遊歩道ゆきし人このごろ見ずといつ人は言ふ   佐藤佐太郎

悲しい歌だが、このあっけらかんとした詠みぶりに驚く。2回出てくる「人」は同一ではない。最初はもちろん自分自身。あとの「人」はどこかで自分を見ていた不特定の人。人間が生きて死んで行く、その冷徹な事実が凝縮された作品の前で、改めて言葉の力を思うのである。