2017年5月26日

贈りたる扇子のその後知らねども

先日の俳人協会の講座で鷲谷七菜子さんのことを話したが、今回あらためて考えたことがある。鷲谷さんは父方が上方舞楳茂都流の家元で、母親は宝塚第二期生のスター、吉野雪子だった。その美貌も宜なるかなという血筋である。幼いころから楳茂都流を継ぐべく育てられたが、複雑な家庭の事情から父亡きあと家元を継承することが叶わなかった。25歳のときに舞を諦めて俳句に生きる決意をするのだが、そのときはまだ俳句でどうなるかという見通しは立っていなかったはず。にもかかわらず、舞に代わって俳句が自分の一生を賭けるべきものだと思ったのはなぜだろうか。それは多分、舞と俳句の共通性である。言うなればどちらも型の芸である。まずは型を徹底的に身につけないことには自分らしさだの新しさだのというのは問題外である。鷲谷さんは美しい字を書かれるが、書道も然り。古典の臨書を何年も続けてようやく思い通りの線が引けるようになる。私自身の体験だが、昔、ピアノを弾いていたころ、先生から「その音」と言われた一音を出せるようになったとき、習い始めて十年が過ぎていた。ものを習得するというのはそういうものだと思う。鷲谷さんも、舞の型を体にしみ込ませるのと同じように、俳句も定型感覚を身につけなければならないものだと感知していたのではないか。そして、修練を積むことによって、ある境地に達することができると確信して一筋に励んだのである。もっとも、生活上の困難は並大抵のものではなく、一筋などと簡単に言えるものではなかった。しがらみから逃れるために自殺未遂まで経験しているが、それでも俳句をやめなかったのである。

鷲谷さんが71歳のとき、当時私が「俳壇」誌上に連載していたインタビューに出てもらったことがある。大阪まで出向き、直接話を聞くことができたのは貴重な体験だった。俳句作品そのままのひたむきさがひしひしと伝わってきた。最後にお会いしたのは平成17年の蛇笏賞の授賞式のときのことで、82歳になられていた。その2年後に断筆宣言をして、俳壇から引退された。17年6月の蛇笏賞授賞式の際、お会いするのはもう最後のような気がした。私はお祝いに扇子をお贈りした。誰にも言わなかったが、鷲谷さんがそれを手にしてくださったとしたらとても嬉しい。いま、91歳になられているはずである。

蛇足。句会に来る人で、最初から自分らしい俳句、個性的な俳句を作りたいと言う人がいる。高学歴の人に多いかも。櫂未知子さんなら「百年早い!」と言い捨てるところだけれど、確かに10年くらいは早い。まず、俳句語でちゃんと話ができるようになってからそういうことは言いなさいね、と私も言う。2歳半の幼児くらいの日本語は必要。彼らは完璧な日本語をしゃべる。その程度の俳句語を駆使できるようになるには、はっきり言って5年はかかる。自己表現のための俳句なんて主張するのはそれからデショ、と言いたい。