2017年5月29日

ところてん生涯つらぬく黒蜜派

「ただごと歌」と称される短歌がある。

次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く
ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文房具店に行く
不思議なり千の音符のただ一つ弾きちがへてもへんな音がす
信号の赤に対ひて自動車は次々止まる前から順に

いずれも奥村晃作さんの作で、私は結構好きだ。何度読んでも楽しいだけでなく、定型とは何かを教えてくれている。これを散文にしたらほとんど痴呆的。それが短歌作品として認識されるのは、ただただ定型であることによる。短歌であることの条件は内容ではない。韻律あるのみである。

あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月  明恵

これは、文字だけを見ていてもまるで歌とは思えない。声に出し、五・七・五・七・七の韻律を感じながら読むとき、初めて和歌と認識できるのである。内容がどうかということは短歌の成立要件にはならないと改めて言っておきたい。ただ、つまらないことでも、意味が分かるというのは短歌も俳句も私には最低必要な条件である。
俳句は短いこともあって、何を言っているのか分からず、言葉の羅列としか思えないものが結構ある。意味が分かるものはつまらない俳句、という価値判断の基準もあるらしいけれど。「クプラス」の付録に、「平成二十六年俳諧國之概略」という俳人地図が付いてきて楽しめた。私は「分からないとダメ派」に分類されている。そんなことをどこで言ったのかしらと思ったが、当っている。俳壇最右翼(この図では左端だけれど)と思われているのが嬉しい。気の毒に櫂未知子さんも私と同類にされている。その下に西村和子さんの名前は少し小さく書かれている。西村さんに見せてあげたら、「〈クプラス〉ってなあに?」と言ったけれど面白がっていた。その下に「品格派」というのを見つけて、「あら、私はこっちヨ」とも。鷹羽狩行、深見けん二、有馬明人など、番外の人たちのところへなぜ筑紫磐井さんが入るわけ?とか、疑問は上がったけれど。「低廻派」にグルーピングされている人たちの意図はよく分かるが、「低廻」の意味を間違っているような気も……。生駒君は高踏派だったの!とか、けっこう楽しませてもらった。私のような人間はむしろ「俳句原理主義者」と呼ぶ気もするのだが(イスラム原理派というのはそういうことでしょ?)取り敢えず「分からないとダメ派」として、その勢力拡大に力を尽くすのが今後も私の使命だと思っている。死守ということになるかもしれないが。