2017年5月30日

青嵐荷物おろして丘に立つ

気ままな昔語りのつもりで始めたこのコーナー、俳句論を展開するつもりはなかったのだが、成り行きで余分なことを言うことになってしまった。ついでに最後に言っておきたいのは、多くの人が「俳句とは」という問いに対するさまざまな答えをもっているのだから、お互いの考えを尊重し合いたいということ。送られてくる結社誌や同人誌を見ていると、やたらに評論に熱心なものがある。それも難解なので、この人たちはいつもこんなことを考えているのかしらねえなどと、我が家の茶飲み話のネタにはなる。俳句はそんなに難しいことを考えないとできないものなのかと、家人は素朴な疑問を抱いているようだ。
私にとって不思議なのは、結社に入ったことがないとか、有季定型派ではないことに優越感を抱いている人がいるらしいということ。同人誌で活動したり、無季俳句を作ることが高級だと思っているようだ。私は、公民館で毎月集まって句会をしている老人たちと、難しい俳句論を展開している人たちとの間に優劣などないと思っている。

さて、私が40年近くも俳句を続けてきたのはなぜか。多分楽しかったからである。「俳句って楽しい!」という気分とはちょっと違うけれど、仕事でもないのに、面白いと思わないことはやらない。自分の関心のあることに対してなら時間と労を厭わないというのが私の主義である。遊びのためにも最大限の努力はする。昔、「イングリッシュ・ペイシェント」という映画を観て、主人公の不倫相手の女性が結局は死ぬことになる洞窟の岩絵に衝撃を受けた。それが見たくてアルジェリアまで行った。サハラ砂漠の果てのジャネットという街に泊まり、4WDで行ける範囲のものは見た。人生を楽しむためには努力を惜しまない、それを俳句でも続けてきただけなのかもしれない。飽きることがないものに出会えたのは、幸せだと思っている。