2017年6月1日

見えすぎる揚羽は還る樹を知らない

困ったことに見えすぎている。見えすぎていると、ついつい解りすぎてしまう。解りすぎることは日常生活を営むには差し支えないが、何かを書いたり考えたりするには、ちょっと不自由すぎる。解りすぎていることは書けない。技術的に書けない、というよりも、書く動機が見つからない。いったい「書く動機」は何だ。

厄介なのは、待ち望んでいるものは決して現れないということだ。

あいにく眼が悪いので、見えすぎているといっても限界がある。見える世界の限界というのは、遠くが見えないとか、ある方向が見えにくいとか、そういう空間的なことでは、たぶん、ない。ふと視線をうごかすときに世界がぼやける。一度ぼやけた世界はなかなか帰ってこない。ぼやけた世界にしだいに焦点があたって、ふたたび視野がクリアになっていくということ。その時間差は、見えるプロセスを明らかにしてくれるけれども、それがどれほどクリアになっても、そこには見えないものがまだ存在しているような気がする。

昔から、推理小説を読むのが好きなのだが、いつも不思議に思うことがある。いったい推理小説作家というのは、読者がそれを読むほどに、書くことを楽しむことができるのだろうか。隠された死体も、殺人の動機も、巧妙なトリックもすべて知り尽くしている彼ら/彼女らは、何が楽しくてその長い物語を書くのだろう。きっと、読者が追い求めるものとは違う、見えにくいものが、きっとあるにちがいない。推理小説を推理小説たらしめている、仕掛けや文体以上に「書く動機」を生み出しつづける、別のプロセスが。

自分にとって書くことの楽しみは、事件の真相に迫るような、出来事の原因へさかのぼるような、相手のアリバイを暴くような、そういう義務を負うことのない、もう少し「でたらめ」なものだ。左辺と右辺が等号で結ばれる論理的な数式ではないし、状態が変化しても一定の量が保存される総量の変化しないエネルギーでもない。

もやもやとしたことが、具体的な姿をとる前の、まだ何にでもなりうる、何枚もの顔が同時に重なりあっているような、そんな不確かな景色。

自分が住む日常は、おいそれとそんな愉快な景色を与えてはくれないのだけれど、眼を凝らして、借りものの言葉で、なるべくひとりで。