2017年6月5日

育つ子といる噴水すっぽり日暮里

「秘密」と「謎」は違う。
「秘密」は何かが隠されている。見えているのは隠されたものの代理だ。見えているものと隠されているものは、何らかの繋がりをもっていて、見えているものは隠されているものに「ついて」独自の解釈で反復されたものだ。「秘密」について知りたければ、尋ねればよい。
「それは、何を意味しているの?」
それが重要な秘密でなければ、それとなく隠されているものが何なのか教えてもらえるかも知れない。でもそこで「秘密」は終わりを迎えることになるのだけれど。
一方で「謎」とは、仕草だ。ひとつの、かたち。身振り。名付け。つまり「見え方」だ。それはあたかも奥行きをもっているかのように、それを見つめる眼を騙す表層。「謎」が見る者に与えるのは、まなざしの欠落と過剰。「謎」について知るためには、固有の手続きが必要になるのだが、それは定められた方法として皆に知られているわけでは、決して、ない。

描かれた人孤独な子育京成日暮里駅入賞よく気

絵にはそれを描く人と、描かれた絵を観る人と、ときおり「描かれた人」がいる。絵を描いた人と、それを観る人のあいだの経済では、「描かれた人」がどういう人であるのかはあまり問題にならない、ような気もする。本当のところはよく知らないけれど。「描かれた人」がどういう人であるかが問題になるような場合は、逆に描いた人の絵を描く技術や主体性というものは後ろにあとずさる。
それはいわば「孤独な子育」みたいなもので、親の孤独さと育つ子どもの成長は、すばらしく断絶していて、だからこそ子どもの成長は親の孤独を慰めうるのではないだろうか。

京成日暮里の駅は、成田空港へ行く途中に位置するわけで、日本の玄関口につながる駅にしては「日暮里」という名前はイカしている。「にっぽり」は「にっこり」とか「がっぽり」とか「すっぽり」とか、そういう想像力を刺激するイメージが重なりあう言葉なように感じられて、魅力的だ。日本を訪れた外国人の方々には、是非、知ってほしい地名だ。といっても日暮里がどんな町か詳しく知っているわけではないのだけれど、名前がイカした町には、きっとイカしたひとびとが住んでいるだろう。

「入賞よく気」は、明らかに壊れた文の断片だ。恣意的な文字列を生成する過程で、よくこういう文が現れるのだ。大事なのは、正にこういう壊れた部分だ。
「にゅうしょうよくき」をアナグラムで処理したい気はするけれど、あまり良いものは見えてこない。「入浴書記」とか「入場曲」とかに変換できなくもないけどイマイチだ。少し文字を足して「肉食恐竜」としてみる。「京成日暮里駅肉食恐竜」。
「壊れた部分」をかろうじて「理解可能」な文に変換しただけで、あまりわくわくするイメージが生成されない。残念。