2017年6月6日

壁に濡れたあかはら日帰りである

「わかる/わからない」とひとことで言うけれど、そのあいだには限りないグラデーションがある。「わかるもの」と「わからないもの」がさまざまなレベルで混ざり合いながら、世界を構成している。
眼は、悪気なく「わからないもの」を景色から消してしまう。「わからないもの」は消えやすい。なぜなら「わからないもの」には名前がないからだ。「わからないもの」を見つめるためには、もっとロジカルな、感性に寄らない別のみちすじがあるようなのだけれど、それは容易く「わかるもの」へデフォルメしてしまう傾向を呼び込んでしまう。
「わからないもの」を「わからないまま」に、かたちないものを名付けるためには、どのような努力が必要なのだろうか。

い出口踏み入ら壁歳蓄積日帰り作品復活つい含ま

断絶はそのままにしておきたい。何も強調しない「い」、途切れるような「ら」、終わりを保留する「ま」。考えてみればこれらは、いちばん最初に目につく不可解な場所で、これらの文字はそれを指し示す「しるし」、その不可解な場所に付けられた名前ではないか。

文法というものが、この何やら不可解で別の言葉で言い換えられないような、言葉と言葉のあいだの歪みを見るための決めごとのことだとすると、この文字列を不可解にする「しるし」たちは「新しい文法」を生成しようとしているのだ、と言うことはできないだろうか。

この「新しい文法」は、誰かから教えられたものではなく、意味する言葉のあいだで、それらの言葉がさらに意味しようとすることに活き活きと干渉する。「出口」/「壁」/「歳」/「蓄積」/「日帰り」/「作品」/「復活」これらは、この舞台の登場人物にすぎない。彼らの関係が成立するには、彼らをつなぐルール(=文法)が必要になるのだが、それは「新しい文法」によっていまここで自由に生み出される。「新しい文法」は「しるし」であって、まだ誰にも共有されていない。

ここで「新しい文法」は「~について」という規則的な指示をあらわすものではなく、その「しるし」としての機能によって、それがつなぐ言葉たちを、ときに横滑りさせ、あるいは付け足し、比較し、組み替え、つなぎかえる。

「新しい文法」は、つまりそれは「孤独な文法」である。