2017年6月7日

野生の金魚ひこうきたてものぜんぶ墓

恐ろしいことに「面白い」という感情すらも、実は自分の外部に規定された既成の感情であったりする。人は悲しみたいときには「泣ける音楽」を聴き、笑いたいときには「笑える映画」を観る。
実は「面白い」というのは感情ではなく、いまの自分のもやもやした何かを表そうとそる「表現」なのではないだろうか。
だから、すべての感性のはじめに「面白い」ということを優先させると、いま見ているものに含まれている、大事な感情を見落としてしまう可能性があるのではないか。というのも「謎」めいたものは、意味やイメージ以前に、それが「書かれた動機」そのものが「謎」めいた身振りを見せるからである。つまり、「わからないもの」というのは、それが「面白い」のかどうかすらわからない。
ただただそれは、不可思議な表情をしているだけで、ある種、無味乾燥な、表層の重なりでしかないのである。それを「面白い」と思うためには、既成の枠組みがあれば容易いのだけれど、それは時期尚早なのだ。必要なのは、何が面白いのかよくわからないものの前で、じっと腕組みしながら、新しい感情が湧きあがるのを忍耐強く待つことだ。
変わる必要があるのは自分自身で、そのための既成の枠組みは用意されていないのである。

部屋野生見せ飛行機建物全体墓暮ら運ぶ男

見たものを「そのまま」とは言うものの、多くの場合は、見たものを一度解釈したのちに、理解可能なものとして、書かれる。だから、それが理解可能なものとして解釈されるまで、いま見ているものを書くことが難しい。

しかし、いま見ているものが全てなのである。
全ては出揃っているのだ。

「部屋」のうすぐらさと、「野生」の湧きあがるような生命力とがなんの脈絡もなく隣り合う、というところに世界の迫力があるのではないか。これらが、助詞によって繋がらないというところに、読み手の心理の居所があるのではないか。
この脈絡のない文の言葉と言葉のあいだに「読み手の心理」があるとすれば、そこから読み取ることのできるものは、それが「何を言おうとしているのか」という文脈ではなく、そこに言葉がどのようにあるか、あるいは、言葉になりかけたものが、どこで挫折しているのか、に注目するべきだろう。

「飛行機建物全体墓暮ら」に続く「運ぶ男」のイメージは、あくまでも表層のイメージであって、全体的な完成されたイメージではない。そこで「運ぶ男」がいったい「何を」運んでいるのか、という問いかけは野暮なのである。ただただ黒い影となって、せっせ、せっせと「運ぶ男」であるというそれだけが、この世界の印象のすべてなのだ。