2017年6月8日

 弟子うつろ思われるほど仙人掌咲く

 

見たものは、消せない。一度、見えてしまったものは無かったことにできない。これはつまり、目に見えたものは、かならずどこかで見た者のもとへ戻ってくる、ということだ。

これは「見る」ということが、どこかで「信じる」につながっていることを示しているのではないだろうか。つまり一度信じたものを、人は捨てることができない、ということを意味しているのではないだろうか。仮に、何かによってその信じたものが抑圧されたとしても、それは意識の底の方に滞留し、ずっと存在しつづける。そしてある時とつぜん、イメージとして回帰する。

いわゆる「書く動機」は、この「信じる」ということと無関係ではないのではないか。「信じる」ことができるものだけが、「書く動機」を得ることができる。そして、それは、書かれることで「見たもの」をそこに刻印し、二度と消せないものにすることなのではないか。

そうして書かれたものは、誰かに読まれ、その誰かの意識の底に滞留し、どこかで、その影響であることすら誰にも知られずに、イメージとして蘇ってくるのではないだろうか。

 

思われるシロナガス弟子たちなりト氏

 

動詞。それは、見ているものをいきなり「生き物」にしてしまう。ここで言う「生き物」とは、「シロナガス(クジラ)」のことではない。そうではなく、「思われる」という動詞によって、この不可解な文字列に、突然「思う」という行為の主体が立ち現れる。この「思う」の主体は、おそらく「シロナガス(クジラ)」ではない。

問題は、その「思う」主体が、どこに一致するのか、しないのか。

そこで想定された主体を請け負う誰かがいる。

いま見えているものを、放っておくことができないのは、この想定された主体のまなざしが、自分に向いているからだ。

 

意味を構成しない文字列を構成する言葉たちは、いつでも交換可能で、いくらでも横滑りすることができる。その横滑りを、意味あるものとして、そこにとどめるのは、その隙間に生じたこちらを見つめるまなざしゆえだ。そのまなざしがある限りで、その言葉を、他のものに置き換えることができなくなる。かけがえのなさ、それはまなざしである。

 

しかし、そのまなざしは、そこに存在しないゆえに、見る者をそこに縛りつける。その視線にとらえられ、動けなくなる。まなざしは、歴史に書き込まれ、そのまなざしの正しさゆえに、そこに閉じ込められる。

 

自由だった弟子たちは、弟子であるがゆえに、まなざしから自由でなくなる。