2017年6月10日

地球夕立美術館長ガラスのなか

問題なのは、正しいことが成されていないということではない。それこで何が起きているのかを、客観的に知ることができない、ということである。
それは、自分自身の視線に巻き込まれている、ということだ。
言い換えると、自分自身を巻き込んだ世界について厳密に客観的な測定値を得ることは不可能だということだ。
世界の体温を測ろうと、身をのりだしたとたんに、自分自身の体温が世界の体温に影響を与えてしまう。自分自身の体温の影響を受けない世界の純粋体温を測ろうとしても、それは不可能なのだ。
この不可能である、ということが「書くこと」に亀裂を与える。
この「亀裂を与える」は「書くこと」の一部であり、そこだけを取り出して調節することはできない。だから人は書けば書くほど、それを読む者に「しるし」を送ってしまうのだ。
もちろん、この「しるし」を正しく読み取ることのできる公明正大な「第三者機関」は存在しない。読み手もまたその「しるし」を読むために身をのりだし、自分自身の体温で、その「しるし」の意味に固有の体温を与えてしまうからだ。

チョー美術館長生物人類学者ターニャ地球

未確認生命体は、未確認であるがゆえに生命体であることはわかっても、呼び名がない。それは、それまでのどの生命体とも異なることがわかっているが、これまでの動物や植物と性質を共有していないために、それが「何ものであるか」を言うことができない。その生命体を呼ぶための、代わりになる言葉がない。

名前。未確認生命体につけられた名前は、それを繰り返し呼ぶために必要なものであるわけだが、一方で、それは未確認生命体のポジティブな性質と結びついているものではなく、ある意味で「偶然」である。

言い換えれば、名前はいかようにも呼ぶことができる。名前は、つけかえが可能である。「名前」はその対象と、好きなように結びつくことができる。

だからときおり、同じものを違う名前で呼んだりする。「ターニャ」は「生物人類学者」で「美術館長」で、なぜか「地球」だ。

横すべりしながら、指差すように「名前」がつけかわる。

書くことは、「名前」をつけることだ。