2017年6月11日

市場灼けて色とりどりのとびら売る

重なりあったふたつの運動が存在している。
ひとつめは「書くこと」がそれを「あらしめている」ということ。それを「あらしめる」まで、世界は混沌とした、まだ何も決定しない複数の顔がこちらを見つめている世界だ。その顔たちは書く主体をじっと見つめ、それを「あらしめる」べきだと訴えかけてくる。
ふたつめは「書いたもの」が、それを書かせた顔とふたたび結びつくということだ。「書いたもの」が「書くこと」とは別の道筋で、それを書かせた「顔」と結びつく。見落としてはならないのは、このとき結びつく「顔」とはそれを書かせた「顔」とは異なるということだ。
この結びつく「顔」こそ「書く動機」ということができないだろうか。それを書かせたのとは異なる「顔」。事後的に出会う、「書く」前には知られていなかった「顔」。それか「書くこと」に意味を与えているのではないだろうか。

隠すため満ちあふれた市場徐々開ける重要性特定するこ

こうして恣意的な文字列を見ている眼は、ついわかる言葉だけをつなげて経験的な意味だけを読みとろうとしてしまう。

この「経験」というものは、どこまで我々の眼を支配しているのだろうか。

確かに「経験」は、目の前にあるこれまでに見たことのないものを、すでに知っているものに還元してしまうけれども、同時に、目の前の世界を構成している要素が内包する既知の関係性を解体して、あらためて繋ぎかえることができるのも、やはり「経験」によるものなのではないだろうか。

例えばモノで「満ちあふれた市場」で、何かを買い求める。その「決定」は、ひとつの「経験」として、過去という時間の中に記録される。そこで買い求めたモノは、それ以外のものではなく、そこでそのとき確定したたった一つの出来事を指し示している。しかし同時に、それは「別のモノを買い求めた可能性」を隠しもっていると言うことはできないだろうか。

「経験」とは、取り消すことのできないひとつの「出来事」であると同時に、それを「隠すため満ちあふれた市場」の彩りと、いま目の前のものが、別の何かであった可能性、別の何かと関連をもっていた可能性を指し示している。

すでに知っていること、それは「経験」を通して、そのとき知り得た全てのものへ通じている。いつもよりすこし多く瞬きをするだけで、「経験」というガラスの向こうに、その知り得た全てのものの影を見ることができるかも知れない。