2017年6月12日

科学と田園草矢うつ黒い空洞

すなわち「意味」というものは事後的に与えられる。問題になるのは、その「意味」を抵抗なく受け容れることができるかどうか、である。
この「意味」を受け容れることができるかどうかという幅、受け容れることができないものとできるものの間のエリア、これはある種の「意味の可動域」ということが出来ないだろうか。
柔軟運動によって関節がやわらかくなるように、「意味の可動域」もまた固定化されたものではなく、経験的に広がることがあるのではないだろうか。
しかし「意味」がもたらすのはいわゆる線的運動だけではない。むしろ「言葉の厚み」というような、重ね塗りされた言葉の「面」の印象をもっている。イメージは意味よりも広がりをもつ、波の重なりのようなものだといってよいだろう。

科学誌田園地帯保護活動黒い空洞望遠鏡

見えている世界がカラフルなのは、言語的な差異によるものである。
そして同時にことばは、似たようなことばで引き合うような側面もある。
いわゆる「言葉づかい」は、そうしたお互いに引き合う「言語セット」で、それによって主体は社会的な「私」として色づけられるわけだけれども、その「色づけ」は、どこまでもひとつの統一された主体であるためのもので、それがどんなに鮮やかな色であったとしても、単色のグラデーションでしかありえない。

「科学誌」/「田園地帯」/「保護活動」/「黒い空洞」/「望遠鏡」これらが指し示しているのは、そこで言語化された世界の「差異」に他ならない。しかし、同時にこれらは意味のレベルで引き合い、同一化しようとする。つまり、例えば「科学誌」と「田園地帯」が同時に存在しうる世界を遡及的に構築しようとする。
それは、単色の「私」という主体が外部から「私」の色に「似たもの」として、その世界の有り様を「調整」しようとする働きだ。
このような主体のかかわりによることばの「引力」に対して、ことばの「斥力」というものが存在する。例えば「科学誌」/「黒い空洞」のあいだには、何かの経験的でポジティブな関係性のほかに、それらがある種の枠組みの中では「共通項を持ち得ない」という一見、ポジティブな関係性の欠落に見えるものだ。
この「関係性の欠落」は、通常考えられているように数量的なものではなく、じつは「経験的でポジティブな関係性」の裏側に常に張り付いている、ネガティブな「過剰」だ。この「過剰」は数量的なものでないゆえに、定量化することができず、定量化できないゆえに、どこまでも「過剰」なのだ。

大事なことは、この「過剰」が「経験的でポジティブな関係性」の裏側に「常に」張り付いているということだ。つまりある種の数量的な「欠落」は、それを埋めようとすることばの働きを限りなく裏切りつづけ、その意味の欠落を完全に充たすことを決して許さないのである。