2017年6月13日

印象のしっぽ銀河に芸術家

「ない」ということは、「ある」ことのネガティブな裏側だと言えるだろうか。
日常は「ある」ことで充ちていて、「ある」ことの連鎖のように見えている。だから、通常「ない」ということは、「ある」ことの欠落だと考えられている。
たとえば「わからない」ということは、「わかる」ことの欠落、と考えられてはいないか。そこには「わかる」ために必要な何かが「欠落」している。何かが「足りない」。その「欠落」を埋めることができれば、「わからない」ものが「わかる」ようになるのではないか、と。
けれども本当に「わからない」とは「わかる」の欠落なのだろうか。「わかる」というゼロレベルがあり、そこが基準に「わかる/わからない」の領域を構成しているのだろうか。

芸術家樹上下ウムようかチーム明らか多く銀河団

面白いことは、ことばがそれ以外のことを容易く考えさせなくなるということだ。ことばは、何かを見えるようにすると同時に、それ以外のものを見えなくする。
たとえば「芸術家」という言葉があるだけで、我々は「芸術家」という印象から離れることが難しくなる。むしろ、「芸術家」以外の印象は消されてしまう。
「銀河団」に立っているのは「芸術家」以外のなにものでもない。

しかし「それ以外のものが見えない」ということは何を意味するのだろう。

いや、それは「見えない」というけれど、その「見えなさ」はいわゆる視覚的な「見えなさ」以上に、何かを「見せている」とは言えないだろうか。
例えば、遠くの木を見ているとき、その木と自分の眼との間に一頭の像があらわれ、それによって木が見えなくなったとする。このとき、眼は象でいっぱいになっていて、それ以外のものはまるで見えていないのだけれど、それまで見えていた「遠くの木」は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
つまり「それまで見えていた」という時間的なものの見え方が、いま見えなくなってしまった木に、なんらかの印象を与えているとは言えないだろうか。

「芸術家」によって、「芸術家」以外のものは見えなくなるのだけれど、それによっていままで見えていたものは、何か別の印象として視野をもやもやさせる。

「上下」/「ウム」/「ようか」/「チーム」/「明らか」/「多く」の連なりは経験的な意味に還元できないのだけれど、どこかそれまで見えていたものの「印象のしっぽ」のようなものなのではないだろうか。