2016年6月16日

売り子は夏とつぜんミケランジェロの魅力

いわゆる「透明感」と呼ばれるものは、「ある/ない」という「もの」の有り様と、その見え方を印象的に表現している。

「透明」であること、それは「向こう側が透けて見えていること」を意味するが、しかしそこには「何もない」のではなく、必ず何か「もの」を介在しており、あくまでもその「もの」の光の透過度を指し示している。それは「何もない」のではなく「透明なものがある」のであり、一見「(見え)ない」ものが、実は「ある」という言い方で、「もの」の存在を示している。

ときどき、ガラスの壁に「何もない」と思い込んで顔を打ち付けてしまう、などということが起きるのは、目が「透明なもの」を「何もない」と思い込んでしまう錯覚によるものだ。
もし仮に「何もない」と思われているものが、実は「透明なものがある」のだとしたら、その「透明さ」はどのような「もの」によって媒介されているのだろうか。

「書くこと」はまさにそのような「媒介する」行為ではないか。
「書くこと」によってのみ、いまここに「ない」ものを、「ある」ものとして、その(透明な)「もの」の「向こう側」を想定することが可能になるのではないだろうか。

おり突然売り子ほぼガス不思議な魅力ミケランジェロ

「あなたが好きです」といわれるよりも、「あなたは嫌いだけど不思議な魅力がある」と言われる方が嬉しい。それは「好き/嫌い」という言葉が、その人の「表現」であるのに対して、「不思議な魅力がある」とは、それを感じさせる具体的な何かが存在することの証明であるかのように聞こえるからではないか。
「魅力」はそれを生み出す等価的なものには還元することのできない「不思議さ」を常に備えている。「不思議じゃない魅力」というのは、もはや「魅力」ではない。つまり「不思議な魅力」というのは同語反復表現なのだ。
だから、その「魅力」のもつ「不思議さ」が具体的なものや事象に還元できないということが、それを見る者の眼を惹きつける。

けれども、この「魅力」がどのように生成されるのか、実はさっぱりわからない。
例えばミケランジェロの「ダビデ」や「ピエタ」といった彫刻に何か説明しがたい「魅力」が存在する理由は、たぶんどのような「分析」によっても得られない。
それは、原因となる物質的「何か」が「魅力」を生み出しているのではなく、その「原因としての何か」自身が、実は実体をもたない「魅力」そのものの別名だということなのではなだろうか。「魅力」の裏には何もない。なぜならそれが「魅力」の正体だからなのだ。