2017年6月17日

眼を出ればすぐ田園裸足の田園

同じものが異なって見える、という眼の問題について考えなければならない。それはひとつの「見かけ」が「見かけ」以上のものになるということだ。

例えば、自分の愛する人が死んだとする。
しかし、家に帰るとその彼/彼女が普通に生活していて、まるで「生きているときと変わらないように」そこにいたとしたら、いわゆる愛する人が生きている頃の「見かけ」そのままにゾンビ化したとしたら、そのとき我々の眼にはいったい何が起きるだろうか。このとき眼は「ありのまま」に見ることができるだろうか。

「見かけ」は死ぬ前と何一つ変わりがないにも関わらず、眼はその一挙手一投足に「生きていたころ」とは異なる、ゾンビ固有の「意味」を見てしまうのではないだろうか。歩き方の特徴や話す言葉のちょっとしたニュアンスの違い、言い間違いや時折ただよう視線など、そうしたすべてが彼/彼女が「ゾンビ」であることをあたかも「意味」しているように見えてしまうだろう。

愛する人のゾンビ化、という「同じものが異なって見える」ことの思考実験によってわかることは、「生きている」という日常的なゼロレベルがあり、そこからネガティブなズレを生じた「あたかも生きているように見える死者」が生成されるのではないということだ。

ウム結論づける田園地帯ラシラ天文台ワシントン記念塔ティ氏

ひろびろとした場所で、何か遠くのシンボルを目掛けてただひたすらに歩く。そうした単純な行為に何故か限りない開放感を感じる。この「ひろびろとした場所」が仮に人や建物で埋め尽くされたとしても、この開放感を失ってはいけない。けれども、眼というものはなぜかだんだんと自分の時間や空間を、ほんとうのそれよりもせせこましいものとして見積もってしまう。
自分という小さな個室から、いつも外を見ている。この「個室」は実は伸縮自在で、身体という限界を超えて、生きている空間を意識が巻き込んでいる。
そのとき、眼は窓だ。
「個室」を感情で満たすのは、はるばるとした田園風景であり、天文台から覗いた途方もない夜空であり、午後からのくずれやすい天気だったりする。「感情」は、自己のうちがわにあると考えられているけれども、時折いてもたってもいられないような、自分自身を動かす力は、ほんとうは「個室」から覗いた眼の向こう側にある。
それはもう「眼」と「外」のあいだに何もないような、直接的で音楽的なことばのない空間の話。