2017年6月18日

燦と向日葵火山のように考える

逆に言えば、「全き生」とでも言えるような、日常的なゼロレベルだと信じられていることが、ある種の「見え方」に支えられているということだ。これはいわゆる日常性というものが、決してニュートラルで純粋な視線の内にあるのではなく、常にポジティブなものの見方が存在している、ということだと言えるだろう。

ゾンビ映画で極端にデフォルメされたゾンビの歩き方や、肌ツヤを劣化させた特殊メイク、人間からかけ離れたような呻き声、といったゾンビ固有の「見かけ」だと思われているものが、そうしたデフォルメされ象徴化された「見かけ」をはぎ取ることで「生者」にもまったく同様に適用できる、ということだ。

ゾンビに対する、「生者」特有の「人間的なもの」というものは、こうした「見かけ」とは異なるところで生成されるということだ。つまり「生きている死者」の中に眼が発見してしまう「死者」固有の意味とは逆の意味で、「生きている生者」に対しても、眼はポジティブな何かを発見している、ということだ。

このことは「書くこと」がもたらす文法的意味以上のものについて、我々に語りかけてくれているのではないだろうか。「書くこと」が、その「書かれたこと」という「見かけ」以上のものを生み出すということを。そしてこれは、「書かれたこと」がその「見かけ」以上に、際限のない「意味」を生成しうる可能性である、ということを。

向かうフルネーズ火山ボルネオ考え

いわゆる武蔵野台地の上に住んでいるのだが、そこは町でもいちばん富士山がよく見える場所だったりする。武蔵野台地の基盤となっている関東ローム層は富士山の火山灰が堆積したのだと言うが、そんなことは信じられないくらいに、遠くに見える富士山とのあいだには静かで何もない。
不思議なもので、歩いているときが一番頭が働いているらしく、通勤やちょっとした買い物などでぼんやり歩いているときが、一番、ものを考えている。駅から家に向かう途中に、武蔵野台地を下ってゆく坂があるのだが、ふと遠く真昼間の地平にくっきりと富士山が見えていると、それまで言葉で考えていたことが、何か大きなイメージのかたまりになるように感じられることがある。頭のなかの少し出っ張ったところが、どうやら富士山とつながっているらしい。
そのたびに、その透きとおるような富士山も「火山」なのだなぁ、と感じる。そして、見えないところでもりもりと生きている富士の生き物感が、自分の眼の奥で小刻みに働き続ける無意識の小人と通信しあっているように感じられて、そのたびに日常的な自我が置いてきぼりになってゆくようだ。その置いてきぼり感は、少し寂しくもあるけれども、なんとも言えない晴れやかさでもあって、いつも不思議だなぁ、と思う。