2017年6月19日

光る傑作部屋中に仙人掌の花

「書くこと」が現実に対して何も力をもたない、という意見を聞くことがあるが、はたしてそれは本当だろうか。そもそもここで言う「現実に対する力」とは、いったいどのようなことを指し示しているのだろうか。「現実」への関与とは、何を意味しているのだろうか。そして、そこで言う「現実」とはいったい誰のものだろうか。

そこには「書くこと」をインプット、そしてその影響をアウトプットとした単線的で経済的な力関係が想定されているのではないだろうか。
仮に「書くこと」が現実に対して何も力をもたず、何かを書いたとしても、現実レベルでは何も関与されなかったというのであれば、それは「書くこと」をしない虫や動物の活動と究極的には同じものだと言うことができるのだろうか。いや、もしそうだとすれば、それは「現実に対して力をもたない」のではなく、「現実」そのものが失われていると言うべきではないだろうか。

部屋圧巻雑誌みつめ吐き出可視光撮影傑作何

部屋を自分の好きなもので満たしたくなることがある。ただそこにいるだけでなく、手の届くところにすべてを置きたくなる。部屋とはそういうものだし、そういうものこそ部屋だ。
いわゆる「世界観」というのは、そのような「手の届く」ところに置かれた「好きなもの」のすべてだ。けれどもその一方で、「手の届かない」ような「外」のことも考えている。自分の「世界観」のリストには含まれない外部は、光のあたらない静かな場所だ。
部屋のどこかに穴があって、そこから部屋の明かりが漏れている。部屋に音楽を流すと、まるでその穴から音楽が流れ出していくような気がする。音楽を聴いているのだけれど、同時に部屋の外へ向けて自分の好きな音楽を聴かせているような気もする。
自分の「世界観」を流れ出てゆく「音楽」のようなもの。だんだんその音量が大きくなって、自分の「世界観」がその音でいっぱいになっていく。

その音楽は、いつからか自分にしか聴こえないものになって、部屋中の「好きなもの」はことごとく失われて、「世界観」と読んでいたものいつかぼやけてしまうのだけれど、部屋の「外」とそこへ通じる「穴」は、もう自分の一部のように確かなものになって、そこを光と音楽が出入りしていく。