2017年6月20日

空港に飾られた水無月のみず

つまり「書くことが現実に対して力をもたない」のだとすると、それは「現実」そのものが消え去るということではないか。逆に言えば、そこで言われる「現実」というもの自体が、「書くこと」によって生み出されているのではないだろうか。
だとすると、「書くこと」はいったいどのように「現実」と関わり合うのだろうか。
いったい「書くことが現実に対して力もつ」というのはどういうことを言うのだろうか。

例えば「そこにある醤油さしをとってください」と言って離れたところにある醤油さしを誰かにとってもらったとする。これは言葉をインプットにして、「遠くの醤油さしをとってもらう」というアウトプットを得ている、という意味ではひとつの「関与」をあらわしているわけだが、では、これは「現実に対して力をもつ」ことになるのだろうか。そうではなく、むしろ「現実に対して力をもつ」とは、我々が「現実」だと思っているものになにかポジティブな変化を付加する、という日常的な行為とは異なるレベルで、「現実」そのものを生成することのではないだろうか。

作品成田空港駅インド洋なかなか装飾

出口と入口、どちらかといえば出口が好きだ。
ひとつの出入口があれば、それをなんとなくこちらから外へ向かって出てゆくような、そんなちからを感じる出口が好きだ。たとえばトンネルも、入る瞬間より出る瞬間の方が好きなような気がする。急に視野がひらけて、海が見えたりするような広がる爽快なイメージだ。急に眼をふさがれるよりも、ふさがれていた眼に光が差し込む瞬間の方が、何か自分の内がわに何かが流れ込んでくるような感じがする。

でも「出口が好きな人」と「入口が好きな人」がいたら、「入口が好きな人」の方が気が合いそうな気がする。もちろん自分とは違う力学を感じている人だと思うからかだろう。

どうやら自分は、気が付くと何かの内側にいる。入口から入った記憶はないのに、いつの間にか出口を探さなければならなくなっている。自分の意志でいくつもの入口のなかからひとつを選びだすような甲斐性がないのだ。
出口から明るい場所に出たような気がしても、すぐにうすぐらい場所に立っていることに気づく。さっきまで余るほどの外光を感じていたと思ったのに。

どうやら何かにいつも巻き込まれている。

いったい何なんでしょうね。