2017年6月23日

知りうる青い屋根の連想合歓の花

例えば、二人の書き手がいた場合、ひとつのアルゴリズムを交換することで、二人がまったく同じものを書くことは本当に可能だろうか。それが可能だったとして、そうしてひとつのアルゴリズムで「書くこと」は何を意味しているのだろうか。

ここで誰かが書いたものが、読み手に何かしらの「感興」をもたらしたとして、この「感興」は、ひとつのアルゴリズムによってもたらされたものだと言えるだろうか。同じアルゴリズムを反復することによって、同じ「感興」を大量生産することは可能なのだろうか。しかし、ひとつの「感興」はある人には与えられ、ある人には与えられなかったり、あるとき感じていたものが、時間が経ってそれを感じられなくなったり、また同じ「書かれたもの」を何度も読み直すことで感じ方が変化するなど、といった個人差や時間的な変化もまた、アルゴリズムで説明することが可能なのだろうか。

離乳時期フィラメント青い屋根連想させるデ

ある一点を起点として、自由な連想を繰り返しながら書く。そうして「書かれたもの」を、読者が好きなように連想を繰り返しながら読む。不思議なことに、そうして書かれたときの連想を遡るようにして読んだとしても、行き着く場所は書かれたときの最初の一点ではない。

それはAからBへの「連想」というものが、AとBとのズレによって支えられていて、そのズレがあるために、読者はBからAへと連想を遡ることができず、BからCへと別のルートを生成してしまう。「読むこと」が一種のクリエイティブな出来事であるのは、そうした「連想」が生み出すズレによるものだ。

「書くこと/読むこと」が、定量的なものをやりとりしているのでないことは、そのような「ズレ」が生み出す意味の経済によるものだ。逆に、そのような「ズレ」を見越して、意味の枠組みを事前に適用することで、「書くこと/読むこと」の広がりを制限することが可能になる。例えば、時事的なニュースや出来事の「枠組み」を当てはめて「書く」ことや、歴史上の人物の伝記を、あたかも現代の出世物語という「枠組み」に当てはめて「読む」ような場合である。

言うまでもなく、「書くこと」も「読むこと」も限りなく自由であってよいのだけれど、その場合の「自由さ」とは何だろうか。それは「枠組み」を選択する自由のことなのか、それともそのような「枠組み」が生み出すものの見方からの自由だということなのか。

そこでは「書き手/読み手」の「欲望」が賭けられている。「書くこと/読むこと」はその「欲望」の表れであり、「動機」そのものであり、それがすべてである。