2017年6月24日

動く銀河にときどき波である寺院

つまり「人工知能」と単純な「自動機械」とのギャップ、そこで「知能」と呼ばれているものが、「自動機械」を「知能」あるいは「心」あるものに格上げするのは、アルゴリズムによるものなのか、それとももっと別の何かなのか。

それを知るためには、実はまだ我々には知らないことが多すぎるのかも知れない。
しかし、その「知らない」領域を満たす「新しい知」は、それを満たした瞬間にそこから逃れるように「知らない」領域が拡張されるのではないか。追いかけても追いつくことのできない夜空の月や、どれほど距離が近づいてもおいつく捕まえることのできないアキレスの亀のように、その「知らない」領域は決して満たされることがなく逃げ続ける。

「書くこと」を通じて生成する「主体」とは、まさにその「知らなさ」「追いつけなさ」の別名なのではないだろうか。「書くこと」の向こう側には「人工知能」のアルゴリズムが埋めることができなかった「知能」とロジックのギャップが存在する。「書くこと」にとって決定的に大事なことは、そのギャップにこそ「人工知能」が算出し損ねた、「主体」を生成する固有の亀裂が存在しているという事実なのではないだろうか。

短波長聞く理石意見お寺ス銀河団子宮

子供のころから不思議だったのは、なぜ人やモノはスーパーマリオのように移動することができるのか、ということだった。

スーパーマリオはテレビ画面に打たれたドット(点)の集まりで、例えばスーパーマリオが右に移動するときは、そのドットが消えて、右隣のドットが点灯する、という操作が繰り返され、あたかも右に移動しているように見える。

現実の人やモノも小さな原子の集まりで、これが移動するということは、その場所の原子が一旦消えて、移動する先に出現する、という「消失/出現」の繰り返しになるのではないのか。だとすると、いま私がここから、あちらへ移動するということは、ここの私が消えて、あちらの私が出現する、ということではないのか。

量子力学によると、どうやら物資を構成している量子は「粒子であると同時に波である」らしい。難しい原理はよくわからないが、もしかしたら私が移動するとき、実は限りなく小さな一瞬のうちに、私は波になっているのかも知れない。人の見ていないところで、波になったり、粒になったり、ときどき粒に戻れなくて、波のままさまよったりするかも知れない。

実にわくわくする話だ。