2017年6月25日

光るドット偶然の河骨を見る

つまり恣意的な文字列はまさに私たちの世界のあり方そのものだ。

世界はあたかも整合性のとれた言語空間のように見えるけれども、それはことばの象徴性によってあたかも名前あるものが、あるべきところに正しく収まっているように見えているに過ぎない。そこに与えられた「名前」たちは、あたかも「偶然」の連なりを、何者かの意図があったかのように、まるで選ばれたようないでたちでそこに存在している。

逆に、「名前」のないものたちは、そのような辻褄のあった世界の中では頼りなく孤立し、混沌とした顔をしながら、黙ったまま佇んでいる。「名前」あるものたちの隙間に、「名前」あるものたちとは別の仕方ででたらめに並びながら、誰かに名付けられるのを待っている。

「恣意的な文字列」はそのような世界の構成を写し取った代理ではなく、そのような世界の構成そのものであり、それを見るということは、そのような世界の「経験」そのものなのだ。

それは「わかるもの/わからないもの」が混合した、意味のまだら模様であり、それを統一した意識で「読もう」とする我々をイラつかせる。どこからか持ち込んだ文法を駆使しても「読む」ことができない言わば世界の模様だ。

大事なことは、この「読むこと」のできない「恣意的な文字列」の前でただひたすら耐えるようなものの見方。外部から容易く与えられない、意味を構成する前の意味の原石である。

「書くこと」は「見ること」である。
そして「見ること」とは、「偶然」を見ることだ。

ここで言う「偶然」とは、我々に都合の良い、あたかも偶然を装った文脈のことではなく、未来が保証されておらず、それを読むための「手がかり」すら、〈私〉の内に容易く見出すことができないような荒々しい「偶然」だ。

しかし、〈私〉で満たされた〈私〉の意識は、そのような「恣意的な文字列」にどのように出会うことができるのだろうか。その「恣意的な文字列」は、いったい誰がどのように与えてくれるのだろうか。