2017年6月26日

瞬間を闇めく夏服でよぎる

それは恣意的な世界が偶然あらわれて、そこに象徴化が施されたのちに私たちの知っている世界を構成するのではない。それは逆なのだ。世界はすでに象徴化された状態で私たちに与えられ、事後的にその象徴性を奪うような「出来事」に見舞われる。そのとき世界は象徴的な関係性を失い、いままで理解できていたものが、理解できなくなる。

似たような経験がある。例えば深夜のタクシーでうとうとして意識が朦朧としている。突然、はっと目が覚めて車の外を見ると、まったく知らない場所に連れてこられたように感じる。しかしよく目を凝らしているうちにそこが自宅の近所の風景であることに気づくのだ。その「まったく知らない場所」のように感じる一瞬というのは、自分の中で「自宅の近所の風景」を構成している象徴的関係性が一旦、切断される瞬間だ。

つまり言語世界は既に象徴的なものとしてそこにある。いかにでたらめな文字列を生成したつもりでも、それを生成した自分自身の象徴的に構築された意識を出ることができない。

恣意的な文字列を都合よく与えてくれる神様はいない。
誰かが主体的に関わった瞬間に、その「恣意性」は失われてしまうのだ。

辛うじて我々にできることは、既に象徴的に構成されている文字列を一旦解体し、その文脈を壊し、意味そのものを危機に晒すことだ。それもできるだけ機械的に。

それは文法の一部を綻ばせながら、場合によっては品詞そのものも解体する。

もちろんそれは「現実」の似姿にすぎない。
ホンモノの「現実」はもっと救いようのないものとして我々に訪れるのだが、それでも我々の精神にほんの少しだけ含まれる「錯覚を生み出す神経」を刺激するには十分である。

ただし、気を付けなければならないのは、それはホンモノの「現実」ではないが、決してニセモノでもないということだ。そこで生成された恣意的な文字列は、自分自身が生み出した「現実」の一部であり、いわば自分の一部である。
「書くこと」は、その「現実」の一部を自己の内側に記しづける行為に他ならない。それは、どこか危ういもので、ときどき自分の手に負えなくなるのだ。

繰り返す。くれぐれも、気を付けなければならない。