2017年6月27日

アイスクリームよろよろと鼻から消える

例えばテーブルの端から水の入ったグラスが落ちかけているのを見て、「あっ」と思い、体が前のめりになる。あるいは、高い鉄塔のてっぺんに立って下を見下ろすと、尻の筋肉あたりがぞわぞわっとする。はたまた、かつて失恋したときに聞いていた音楽を聴くと、そのときの気分が蘇ってきて胸が締め付けられるように感じられる。
こうして感性は、どこかで経験と結びついている。
そこでは「ことば」を介在しなくても、対象と身体は直接的に結びついている。自分の身体は自分自身のもので、自分だけがコントロールできると考えているとしたら、それは誤りだ。特定の刺激に対して、意識しなくても体が動くケースはいくらでもある。

「書くこと」は言うまでなく言語的な行為だ。「書いたもの」がそれを読んだ者にことばの意味以上のものを感じさせるとしたら、書かれたことばと身体との間にもやはり経験的な感性が働いているとしか言いようがない。

ここで「経験的」と言っているのは、ある種の知的なものではないか。テーブルからコップが落ちかけている、というのは意識するかしないかに関わらずそこに「引力」の働きを認めているのだとは言えないか。
「コップが落ちる」ということばを見たときに、この「落ちる」イメージを経験的に知っているからこそ、「コップが落ちるイメージ」を一瞬に構築して、感じて、体がざわめく。そこには経験的な予測が働いているのではないだろうか。

一方で「書くことは」そうした経験的な物理的事象とは関わりなく、自由に書くことができる。それが「常識的」であるかどうかは必ずしも「書くこと」の前提ではない。だからこそ、「不思議の国のアリス」に登場するチェシャ猫のように「笑いだけを残して姿を消す」ことが可能になるのだ。
仮にこのような経験的ではない事象についても、私たちは何かしらのイメージを構成することができる。もっと言えば、自分たちが生きているこの世界と異なる物理法則で成り立っている世界を想像することができる。

ここで経験的に身体に染みついた「コップが落ちる」というような物理的事象と、経験的ではないが想像可能な異世界の物理法則とは区別することが可能だろうか。

「書くこと」が直接的に身体的なものにつながっているとした場合、そこで前提となっているものは何か。「音楽」にあわせてダンスするように、「ことば」にあわせて心身を躍らせるというのは、いったい何によって支えられているのだろうか。