2017年8月29日

長靴を履けば強気の九月かな

―――拒絶と無関心と

賞を目指す作家が(若手である私のまわりに)結構多いことは、見えてきただろう。
反対に、賞を目指さない作家も、もちろん存在する。

応募したくない、という拒絶派意見については、
・応募して、取れなかったらイヤだ
・じぶんに相応しい魅力的な賞がない
・肩書はさっぱりしているほうがいい
・作品の賞であるはずなのに、人としての賞になってしまう違和感
・審査員に知り合いがいる
・権力や政治から距離を置いていたい
・充分にじぶんはやっていける
・まだまだ応募する域に達していない
などなど。(私が想像で書いたのもふたつほどまぎれています)(きっと他にもあるでしょう)

賞なんてどうでもいい、という無関心派意見についてはちょっと難しい。
私自身どうでもいい派で(ずっと、賞なんてどうでもいいと思ってる←結構煽っています)、でもどうでもいいって理由って、書こうとすると拒絶に近くて。
たとえば、応募してもしなくてもいい、みたいなのって現実的にあり得にくいですよね。応募しないという表明になってしまう。
あとは、そもそも無関心派はこの連載にも無関心なのかも。
無関心派として西原天気さんが、ブログでこの連載にふれてくださっています。とても分かりやすく書かれている。
句は何を待っているのか?
出会う読者はひとりでいい
俳句の賞はぜったい必要、かつ関心ゼロ。
(天気さんは、賞には無関心、だけど、ノグチルリ大丈夫か?と見守り派、なのだと思っています)

まぁ、受賞者だけに気を取られるのは、アクセス数コメント数、いいねやRT・Fav数とかに囚われているみたいなもんだろう。もちろんそれはそれで指標であって、意味があるのだけれど。
いろいろ考える上で、見えないものの可視化にもちょっと興味がある(見えないままでいいんだけれども)。

◆次回は、オチ、どうしよう…