2017年10月7日

ゆふべから蛇をやしなふ水の秋

「如何に詠むか」という意識より「如何に読まれるか」という意識が優先されると気づいたのは、存外、最近になってのことである。こうした意識は、トラウマに似た体験を下地にしていると思われる。俳句をはじめた頃、特に顕著だったが、西日に落ちている釘や冷えた鉛筆の先などの鋭利なものが出てくれば、即ち「沖縄」の痛みのメタファーとして読まれ、冬の壁や雷に浮かぶフェンスなどの隔てるものが出てくれば、即ち「沖縄」の疎外感のメタファーとして読まれた。物が物として読まれるわけではなく、メタファーとして読み終えられてしまう。