2017年10月14日

凶作の封〆のひとはらひかな

「沖縄の俳句」という時に挙げられる「風土」を詠む試みは、脈々と行われてきたことなのだろうか。そもそも沖縄にはいつから俳句が行われていたのだろうか、というのはなかなかの難問である。資料の多くが戦火に呑まれ、灰と化したことを想像するのはたやすい。
仲程昌徳の『新青年たちの文学』に次のような記述がある。

一八九九年には、八重山和風会員アール、シー生が、新派、旧派、中間派について論じた「現今俳句界の三派について」、引き続き伯中居主人の「再び俳句界の三派について」等がみられることからしても、中央俳壇の動向が、すでに伝わっていたことがわかるが…

少なくとも、一八九九年には「沖縄」に俳句会があったようだ。