2017年10月22日

湯中りの鼻つやつやと茸食ふ

慰霊の日書き称えキナクササ便乘する  浦崎楚郷

先述した通り、「慰霊の日」また「沖縄忌」は、六月二十三日を指す。牛島満中将をはじめとする司令部が自決し、組織的壊滅となった日であるが、そののちも局所的戦闘は続き多くの死傷者を出した。「慰霊の日」は、一九六一年に制定された。当初は、六月二十二日であったが、四年後の一九六五年に六月二十三日に改められた。二十二日の説より、二十三日の説を優先したためである。
六月二十三日の正午になれば、「私たち」は鐘の音とともに黙禱を行うが、果たしてこれは誰に祈っているのだろうか。「私たち」の為に祈っているのであれば、それは十分政治的行いだ。
そもそも死んだのかわからず留保されている弔い、死んだことがわかっても正確な命日が分からない弔い、六月二十三日以降に命日を持つ弔い。「喪にあけ喪に暮れる沖縄螢ふえてきた」、「島の旗日に馴れ喪章のしじま始まる」といった浦崎の句が、それで尚「慰霊の日」の営みを書き称えながら、感じていたキナクササはこうしたものではなかったか。桑江常青の「ぼんやりと家でてかがむ慰霊の日」にもそうした倦怠感があったように思われる。