2011年5月・第5回  おまけ  外山一機「Ooi Ocha(父俳句編)」を読む

高柳克弘×福田若之×神野紗希×野口る理

2011年5月・第五回  おまけ

神野   「俳句」(角川学芸出版)2011年3月号の、外山一機さんの作品、「Ooi Ocha(父俳句編)お~いお茶を詠む お~いお茶で詠む」は読みましたか。

福田   僕、「鬣」のほうで、父編とは別バージョンを読みました(笑)。

神野   「鬣」で始めてた試みなんだよね。「お~いお茶」俳句賞の作品とそっくりの句を作ってみせる、っていう。楽しいことやってんな、と思ってたら、角川にも載った。「鬣」は吾子編もあったよね。

福田   父編は・・・すごいですよね(笑)どうして作れるんだろうっていうの、逆に・・・

神野   こういう句って、一句として評価されるべきものじゃないよね。作品というより、この句をつくって出すこと自体が批評行為の一環という。でも、そういうことのために時間を費やすパワー、その情熱。で、角川「俳句」の五月号で、三か所で、これが取り上げられてるんですよ。(以下、引用)

①仁平勝「現代俳句時評:定型の成熟と喪失⑤字余りと字足らず(中)」
一機の句(もちつきの父さんの背にも湯気が立つ:編集部注)では、「も」が字余りを作っている。なぜここに「も」が来るかというと、餅から湯気が立っていて、それに「父さんの背」が加わるからだ。しかしそれは散文的な説明であって、俳句のレトリックとは関係ない(あまりにも初歩的なことだけど)。若い作者なので、老婆心ながら一言いっておきます。

②西村和子×対馬康子×小川軽舟 合評鼎談
対馬   たしかに今回の句は採るのが難しい。
(略)
小川   「Ooi Ocha」とは、要するに日本人の庶民感情みたいなものを、それが月並みであっても陳腐であっても、真正面から試しに詠んでみようということだと思います。
 
父さんが帰ってくるまで起きてていい?
なんて、私が子どもの頃を思い出して、ほろりとするものがあります。それ自体がテーマなので、彼にとっては季語の有無なんてどうでもいいということだと思います。
西村   この句は片言で、ひとつの懐かしい言葉ではあるれど、俳句ではないと思いましたね。(中略)たまたま五七五になっても、それが俳句ではないわけだから。
(略)
小川   腕相撲まだまだ負けぬ父でいて
父の日の父は背中で照れている
むしろ俗な発想のほうが鼻について、鮮度が落ちますけどね。

③相子智恵 俳句月評
父さんが帰ってくるまで起きてていい?  外山一機
作者は二十代。鋭い評論の書き手でもある。この句を一句だけで評することには意味がない。上手か下手かを問うことにも意味がない。なぜなら氏の句群は題名が示すとおり、伊藤園主催の「お~いお茶 新俳句大賞」に応募された様々な世代の受賞俳句のメンタリティに「擬態」して詠まれたものだからだ。

神野   だから、この作品を評価するときに、外山さんの普段の批評活動の文脈があるから、相子さんや私たちは、「擬態」だと解釈できるけど、その文脈を知らない人たちは、外山さんが他の作者と同じように俳句を作っていると言う風に解釈して、中八になってるよ、っていいたくなったり。

高柳   一種のコンセプチュアルアートのようなものだと思ったけどね。タイトルは忘れちゃったけど、オノヨーコがつくったようなものでさ、はしごがあって、のぼっていって、電灯を消してくださいって書いてあるアートがあるじゃない?要するに、観客参加型ね。それに対して、はしごが置いてあって、電灯が上にあってっていう、その景色に美が宿っているかどうかっていう風に見てるのが、仁平さんや鼎談の三人の態度だよね。要するに、はしごと電灯自体に意味があるわけじゃない。上って、電灯を消すという行動自体に意味があるんであって、それをせずに、のぼらずに、脇から、ダリやピカソの絵を鑑賞するのと同じように、きっとこの作者にとっては、はしごと電灯が何か作品なんだろうって見てるっていう態度だよね。だからもう、鑑賞の態度として、次元が違うことなんだけど、それを理解していないのか、それともそういう俳句の鑑賞の仕方を認めていないのか。

神野   認めてないって言う選択肢もあるわけですね。

高柳   それもあるんじゃないかな。そういう俳句の作り方っていうのは、あり得ない、っていう立場もあるんじゃないの。仁平さんがはからずも老婆心で書いたように、もしその意図が分かっていたとしても、若い人がこんなことに時間を費やすことに、なんの意味があるのかっていう批判なのかもしれないね。

神野   でも、そういう批判が、「お~いお茶」の作品に対する批判になるわけですよね。外山さんが、「お~いお茶」の入選作品に擬態して作った句を通過して。そういう、マイナス評価を引き出したっていう点で、外山さんの意のままという。

高柳   「お~いお茶」への悪意、っていうのかな、批評は、あきらかだけどね。もうちょっと拡げて考えれば、この総合誌に登場する俳人全員に対する批評活動でしょう、これは。あなたたちは、こんな俗情、大衆のよろこぶような俗情にしたがって句をつくっているだけにすぎないんじゃないですか、っていうことを問い掛けているようにも見えるね。

野口   この句群をどう読むかっていうことで、読んだひとの立ち位置っていうのが見えてきますよね。

福田   僕は、一読して思ったのは、アンディ・ウォーホルのキャンベルスープの作品です。ああいうのに結構似てるのかなという。もちろん、これ自体がパロディであるという点では、ニュアンスは変わってくるんだと思うんですけど、そのへんにアイディアの源泉があるんじゃないかなという気がしましたね。でも見ててすごいっていうか。この相子さんの言葉を借りれば、「擬態」っていうのがすごくうまくいっていて。僕なんかは、こういうものは、つくれるんだけど、あえてつくらないっていうのがプロなんだっていう矜持もありうるのかなって。

神野   外山さんが評論で引用する、椹木野衣『シミュレーショニズム』(講談社学術文庫)に、現代アートの作品についての批評が書かれているんだけど、たとえば、昔の写真家の写真を、写真に撮って現像するというアート。だから、見た目にはほとんどおんなじなんですよ。並べてみてもほとんど一緒なんだけど、でも、片方はオリジナルで、片方はコピーなんですっていう、そのコンセプトが面白いでしょっていうやりかた。そういう現代 アートのコンセプチュアルな試みに近いような気がしますね。

高柳   でも、全体として、そういうのを踏まえてみても、あんまり面白くないっていうところはあるんじゃない?シミュレーショニズムのアートほどの痛快さもないってことかな。相手取るものが小さすぎるんじゃない。

福田   ああー・・・

神野   「お~いお茶」くらいじゃ。

高柳   そんな牙つきたててもしょうがないんじゃないかね。

神野   現代アートだと、ゴッホやレンブラントや・・・芸術と呼ばれるものにかみついたわけですよね。

高柳   そうだね。やりたいなら、もっと大きなものを相手取りなさい、っていうことじゃないかな。それこそ、虚子でもいいよ。

神野   虚子で詠む、虚子を詠む、みたいな。

福田   あー・・・

高柳   現代俳句を支配している、もっと大きな価値観があるわけだから。

野口   でも、「虚子で詠む」とかしても、普通に評価されるだけなんじゃ・・・(笑)

一同   そうか(笑)

神野   じゃあ、虚子だけやるんじゃなくて、いろいろやればいいんじゃないですか。一連の作品の中で、それこそ、マイク・ビドロのように、前書きに〈これは虚子ではない〉ってつけて虚子っぽい句作って、〈これは秋桜子ではない〉と書いて、秋桜子っぽい句を出して。重信や兜太なんかもいれて。全編、切り貼り、みたいな。俺はなんでも作れるぜ、みたいな。

野口   それでちゃんと上手につくってたら意味がある。でも、今回のだと、下手に作るってことだから、結局あんまり・・・

高柳   トリックスター的な位置を確保するのも、ひとつの行き方だと思うけどね。でも、欲を言えば、せっかくだからね、作家として、オリジナルなものをたててほしいと思う。彼はやはり、シミュレーショニズム的な、いまの現代俳句のあり方を批判してるけど、彼自身のオリジナルとして出されてる作品、たとえば『新撰21』(邑書林)の一連の作品は、じゃあどうなのか。こういう活動を通して、本当のオリジナルってなにかっていう答えが見えてくるといいと思うけどね、彼にとっての。

神野   オリジナルなんてないんだよっていうことを言いたいなら、こういう行き方でいいんだろうけど・・・

高柳   でも、やっぱり、彼なりにオリジナルを目指してるんじゃないかな。

神野   シミュレーショニズムな状態を、奨励してはないですよね。高柳さんも、「豈」の文章で批判されてましたよね。オリジナルって、なんなんでしょうね・・・

高柳   まあ、それを探求するための、過程なのかもしれないね。それとも、これ自体が目標なのかな。それは、彼に聞かなきゃわからないけどね。

神野   シミュレーショニズムだって批判されて、どうですか?

高柳   ま、それは、そういうもんなんじゃないの?俳句という文学自体が、昔からそういうところがあるからね。昔から。引用の織物なわけでしょ。

野口   ことばっていうものが、すでに在るものですものね。それを使うってなると、しょうがない部分が出てくる。

高柳   特に、俳句は、季語も文体も、制限があるからね。どうしてもそういうところが露呈しちゃうかな。

神野   切り貼りだったとして、切り貼りの仕方の問題なのかな。言葉の断片の組み合わせかた、切り貼りの仕方に、オリジナルがでてくるのかな。

高柳   単純に、読みの深さの問題だと思うけどね。ぱっと見たら、外山くんからすれば、伝統俳句っていうひとかたまりのおんなじものに見えるのかもしれないけど、些細な差異であっても、差異をつぶさに見ていくっていうことね。そこからオリジナリティが炙りだされていくっていう。それは読み手の仕事でもあるからね。それを放棄して、ほとんどおんなじようなもんだっていうのは、ちょっと荒っぽい感じがしますね。

神野   言われてみれば、第二芸術論で桑原武夫が挙げてた、名前をとれば素人の作品もプロの俳人の作品も、どれもおなじじゃないかっていう、あれも読んだ感想としては・・・

福田   個性が出てますよね(笑)

神野   そうそう。ポクリッの句とか。やっぱり、句を、読んで育ててく、ってことでしょうか。

高柳   伝統俳句そのものを否定したいんだったらしょうがないけれど、その中でも、建設的なことをしたいと思うんだったら、そうするべきなんじゃないかね。

(終)

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