『季語別 鈴木真砂女全句集』を読む 第三回

●三寸の籠と光り出す螢

螢の句はどうですか?真砂女さんは蛍の句がとても多くて、高橋睦郎さんは「恋螢の真砂女」というふたつ名をつけているほどです。季語別で編まれた全句集の面白さのひとつは、その作家がどの季語を愛用していたのか、何が苦手かが分かるところだと思うんですが、真砂女さんには螢の句がとっても多いということが、改めて分かります。一番好きな句って、どれかな?

やっぱり、「螢の死や三寸の籠の中」ですかね。

ですよねえ。

何句あるんですか、螢は。

何句あるんだろうねえ。いっぱいあるよ。(みんな、ページをめくる)にじゅうろく、さんじゅうきゅう、四十八!

籠も入れて?螢狩りとか?

傍題入れたら、もっとあるね。こうやって見ると、蛍の句、真砂女さんの代表句がいっぱいあるね。

「死なうかと囁かれしは螢の夜」とかね。

「螢火や心許せば膝崩し」とか、恋愛の感情や状況と重ねてるものが多いよね。

「螢火やをんなの道をふみはづし」とか。

そうそう。だけど、「三寸の籠の中」がいいのは、なんでかなあ。

三寸ってどれくらい?小さいってことだよね?

一寸法師が・・・

三人分?(笑)

このくらいでしょ?(指で)

そんな小さい世界での生き死にがあるっていうか。この言葉だけだと、さみしいかなしいってことは出てないけど、やっぱり・・・

三寸の句が好きって人は、はっきり言われるより、こっちのほうがぐっとくるってタイプだってことだよね、読み手としては。

やっぱり、籠が暗くなるじゃないですか、螢が死んじゃうと。光が消えるかんじも見えるので、普通の虫の死じゃなくて、蛍がいいってのも分かる。

わたしは、なんか、朝見つけたってかんじがしていて、そこが切ないなって思ってね。

夜は光ってた。

そう。夜はしばらく「光ってるね」とかいって、かわいがってたんだけど、多少見たあとは放っておいて、でも囲ってあることにはかわりがなくて、朝起きたときに、動いてないのに気付く、みたいな。だからといって、猫が死んだほどかなしいわけではないという。

形的には中7の途中で切れてるっていうつくりかたは、真砂女さんの句の中では珍しいタイプですよね。

正木浩一さんの「玉虫の屍や何も失はず」と、おなじつくり。

「恋を得て螢は草に沈みけり」も結構有名だよね。

螢っていうイメージとして、はかないっていうのが、真砂女さんの中にあって、そのとおりにつくるっていうか。素直にね。

華ちゃんだったら、螢の句でどれが好き?

うーん、三寸のも好きなんだけど、「やがて闇の来ると蛍の光り出す」とか?なんでもないのとか好きかも。三寸の句と、正反対の句で。

外に生きてる野生の螢だよね。

そう・・・なんか・・・光が消えていく三寸の句に対して、光が始まるものを書いてるよね。螢ってやっぱり儚いイメージがあるから、暗めの句になっちゃうけど、この句は力強さもあって、明るめにとれる句だなあ。

たしかに。季語別で螢の句並べてみたときに、ちょっと違う句ですね。

これなんかも、さっぱりしてていいよね。「螢火のあをくなければ情湧かず」。

あはははは。

どういうこと?みたいな(笑)

青がいいんだよねえ、青が切ない感じがするんだよねえ、ってのは人間の勝手なんだけど、それを、しょうがないじゃない!そう思っちゃうんだから、って、開き直っていってくれてるみたいで気持ちがいい。「命はなんでも大事です。AC」みたいなテンションでいわれるよりも「青くなきゃ螢じゃない」くらいの言われ方すると、本当にこのひと、螢が好きなんだなって信用できる。

●演歌と俳句のきりぎし

 

「死なうかと囁かれしは蛍の夜」とか「螢火を命預けし人と見る」とか、ややもすれば危なく演歌になりそうな句って、真砂女さんの特徴だと思うんだよね。どこで、ぎりぎり、俳句らしさを保っているのか。

ありますね。

「男憎しされども恋し柳散る」も。

ぎりぎりですね。

石川さゆりが歌ってそうといわれれば。

やっぱり、そういう経験をしていない人でも、作れることは作れると思うんですよ。でも、私が想像で、駆け落ちしたことのない気持ちで作るのと、やっぱり実感っていう点で違うのかなって気がしますね。なんででしょうね。

私は、結局、つくるときにためらっちゃうかどうかってところに、体験が関わってくるのかなって思うこともある。作者の倫理みたいなものかなあ。句自体は、体験があろうがなかろうが、17文字のテキストは、変らず句の良さは変らない。でも、作るときには、体験してないことをいけしゃあしゃあと、っていうためらいが入っちゃうのなって。最近、「梟」っていう結社誌で震災俳句が出てて、本当に被災した人が書いてるのね。小川真理子さんって言う人が、すごいあっけらかんとした句を作ってて、「ゆつさゆつさゆつさゆつさゆつさ震度7」って。そういうのを見ると、作っても、それを出すことに、私ならはばかられるなと。私が出すとしたら・・・

よくないですね。

倫理観みたいなものは働くよね。そもそも、体験をしなかったらその句が作れなかったかどうかは、証明しようがないから。

体験してない人がいい句つくれないってことじゃなくって・・・そしたら、何に滲むんでしょうね、それって。句ひとつだと滲まないじゃないですか。名前がついてってことになっちゃうんですかね。

その震災俳句も、その人が被災した人だってことが前もって分かる状態で読んでるわけでしょ?私たちがこの句を読んでるときだって、真砂女のの経験前提で読むわけだから、読み手として出されると、判断するのは・・・。

「死なうか」の句は、句としてどうなんだろうね。もう、17文字の単品で純粋に、ってわけにいかないかな。

人生プラスすると、加点されますか?

加点されると思うな。真砂女さんという俳人を語る句として、欠かせない句をつくる、っていうのは、作家としてすごいことだと思う。でも、句の格でいえば、「鯛は美の」のほうが立派だし好きだけど。

(続く)

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