『季語別 鈴木真砂女全句集』を読む 第五回

●『紫木蓮』以後の句

   『紫木蓮』以後の発表句は、今回の『季語別 鈴木真砂女全句集』で、初めてまとめられたわけですが、どういう印象ですか?基本的な、季語や文語の使い方、潔さは変りなしだと思いました。真砂女さんには珍しい、字余りの句がみられるようになるのと、病床を詠んだ句が、これまでと違うところかな。

   爪切りの句とか(笑)

   そうそう(笑)「嘆きの句詠まじとメロン真ッ二つ」、真砂女ばりで好きだな。嘆くくらいなら、メロン食べるわよ、みたいな。嘆く暇あったら、おいしいもの食べるわよ、みたいな。

   内容として、嘆く句詠むくらいだったら、っていうことを詠むこと自体、あんまり俳句の好みとして好きじゃないんだよね。

   じゃあ、真砂女さんの句は好みじゃない?

   いや、それ言わなくてもって思う時もあるし、うまいなって思うし、ほかの俳人の句読むときとおなじかんじだよ?

   そっかそっか(笑)

   でも、この「メロン真っ二つ」とかだと、まさに真砂女さんらしいじゃん。だからそれがダメだったら、真砂女さんの句全般ダメなのかなってのは、たしかに思うよね。この句は、前向き系。

   そうそう、読んでるほうも、メロン二つに割ってくれるから、最終的にすっきりするという。

   性格的に明るそうで、そういうのはわかるんだけどね。

●名前を句に詠む

   やっぱり、身の回りのことを詠むってことは徹底してると言うか。「注射憂し採血痛し卯月淋し」とか、病床俳句もちゃんと。病院にいたら病院のこと、お店にいたらお店のことっていう、身の丈感がやっぱり。

   めっちゃ蛙詠んでんだよね。

   そ、そう?

   めっちゃ蛙詠んでるの。蛙のほうひいてみるとね、晩年の作品が多いの。

   そうなんだ。蛙が近かったのかな。

   ほかに触れられる生き物が減っちゃった、ってことなのかな。

   そうだよね、今までだったら、お魚とか。

   そう、だから身の回りの、机上の句ではなくて。

   「真砂女われお先真暗ひき蛙」とか。「戒名は真砂女でよろし紫木蓮」もそうだけど、句に自分の名前詠む人ってあんまりいないよね。虚子と坪内稔典さんくらい?

   あははは!

   虚子、何句かあるよね。

   悪いやつね。

   「天の川のもとに天智天皇と臣虚子と」みたいな。

   ほかにいないのかな・・・

   「春暁やころがっている稔典氏」。ナルシシズムというより、ひらきなおりのよさみたいなものを感じるな。

   「傘雨忌」の句も、何句かあるよね。先生のこと。

   固有名詞ってどうしても、読者に伝わる伝わらないを考えちゃうけど、むしろ突破していく。「受賞」ってまえがきがついてる「笑ひ泣く涙ぽたぽたバラけんらん」もいいよね。

   バラけんらん。それなかなかつけられないよね。

   「涙ぽたぽたバラけんらん」ってのが…

   音がいい。

   リズムがいい。

   子供っぽい言い方とか仮名表記が、言葉遊び歌みたいなかんじがして、受賞して嬉しいっていうことをいうときに、その嬉しさが、子供のように純粋なものだっていう感じが出てる。

   (句集を指して)ここにも名前詠みこんだ句あるね。やっぱり、自分にしか作れない句っていう意識が高いんでしょうね。

   真砂女さんの句は、俳句をしてない人にもファンが多くて、伝わりやすい。それは強いってことだよね。作家性を持つって覚悟?それは別のものをなにか切り捨ててるってことだもんねえ。生き方を決めちゃうってことだから。

●詠んでも詠んでもまだ死なぬ

   「朝顔を白内障の眼もて見る」、こういう句好きだな。老いの句としても。どんな風に見えるのか、ちょっと知りたくなるじゃない。

   うんうん。

   老いの句って、どんな意味があるのかなって思うとき、老いを感じている人同士で作用する、励ましとか元気もらうとか、そういうことはひとつあるけど、それだと私にはまだ関係がない。でも、こういう朝顔の句は、ちょっと好奇心をそそられるというか。年をとったときにまだ知りたいことがあるっていうのは、私のこれからの楽しみにもなる。どんな色に見えるんだろうな。

   「朝顔や我が師は久保田万太郎」って、凄い句だなって思って(笑)

   『紫木蓮』以降の句で一句、といわれたら、私は「この路地や秋風の抜け人の抜け」かな。真砂女さんらしさもあり、秋風らしさもあり、コトワリに触れてるかんじもする。

   路地もよく詠んでるよね。

   そうそう。「我が路地の帯のごとしや暮の春」とかね。「この路地や」って言ったとき、それは銀座一丁目のおいなりさんの路地でもあるんだけど、全てのどこかのひとつの路地のことでもあるっていうかんじ。路地があって、秋風が抜けて、人が通っていって、ただそれだけのこと。でも、世界ってこういうことかなって。「朝顔を詠んでも詠んでもまだ死なぬ」って句も凄いよね。

   うん、そだね。

   なんか切実ですね。

   でも、悲観的には見えない。

   さっぱりしてるよね。永田耕衣の「朝顔や百たび訪はば母死なむ」を重ねて読んじゃうなあ。

   もしかしたら前提としてるのかもしれない。

   うん。かもしれない。朝顔を詠めば死ぬわけじゃないんだけどね。

   うん。

   螢好きだったんだなと思うよね。「遂に今年螢見ざりき詠まざりき」。

   見ないと詠めないんだね。

   見なかったし、詠まなかった。

   「黄落や卯波の女将いまいづこ」「女将われ見る影もなく秋を病む」とか、やっぱりお店のこと考えてるんだなって。

   そのとなりの「かくも無惨十一月の誕生日」も、文脈考えると、女将としての役目も果たせず、散々だってかんじになるけど、そういう前提とっぱらって好きだな。十一月ってちょっとさみしい時期だけど、本当なら楽しい記念の日が、いやなことがあってぶちこわしになって、一人で過ごしてるかなしい時間って、誰しも体験してることだから。こういう日ってあったよね、という共感。これも「こんなにひどい十一月の誕生日」っていわれたらやだよね、「かくも無惨」。ツァラツストラは「かく語りき」であってほしいという。文語の良さが分かるよ、真砂女さんの句を見てると。

   やっぱり、内容と文体っていうか。

   バランスの引き合いみたいなものが。一句を、俳句として書くに値するものにするための、バランスの引き合い。

●最後の五句

   最後の五句はどうですか。「春燈」二〇〇一年五月号に発表された。

   華さんは四句目の「くちびるの荒れて熱引く二月かな」が好きなんですよね。

   そだね。これ、最後のって考えないで、ふつうにいいなってとっちゃったから。んとね…ごめん、ちょっとあとまわしで(笑)

   はい(笑)

   わたしだったら一句目かな。「元日の旅に拾ひし貝を愛す」。

   あたしもだな。だいたいる理ちゃんとかぶるんだよね。なんでもそうだよね。

   卒業アルバムとか見てて、かっこいいと思う人せーので指差すとか…。

   ほとんどのクラス、おんなじ人指すよね。やっぱり「貝を愛す」いいよね。

   あたしも貝の句好きだよ。

   元日の旅のことを、だいぶあとになってから思い出してる。

   そう、大切にしてるかんじ。旅がどんな旅だったかまで思われるというか。

   貝をひきだしにいれてあるとかとってあるってことは、よくあるけど、「愛す」まではなかなか言えない。「愛す」って言えちゃう踏み込み方が真砂女らしさって気がする。でも貝を拾うってことは、人の共感も呼ぶしね。初日の出も見たのかな。貝を見ながら、今年一年ここまで来たって思いがある。

   じゃあ関係ないんですけど、ちょっと華さんを待ってる間に…

   あ、ごめんごめん。

   「大波に呑まれしわれや夢初め」だけど、「初夢の大波に音なかりけり」っていう過去の作品から発想がつながってるんですかね。自分の句にかえっていくころなのかなって気もして。晩年にこういう句があると。真砂女のさんの句だと、お正月の句、好きですけどね。

   「初凪やもののこほらぬ國に住み」とか、そこ(店の中)にかかってる、「初売りの控えめにもの仕入れけり」とか。お正月から、生活してるってかんじがするし、真砂女さんの句って、常に腹が据わってるから、お正月に決意したかんじと…

   合うんでしょうね。新年感が。

   三句目の「永き日やついうとうとと椅子の上」は?

   たしかに、最後の句と思うと…

   最後の句っていうの込みでいい。

   こまないと、ちょっとついてますよね。永き日感がですぎるというか。読者への信頼があるから、こういう句も詠める。

   俳句では普通、読者と作者の信頼っていうと、師と弟子の間に発生するけど、真砂女の場合は…

   やっぱり、ファンサービスがありますよね。

   もっと広い読者を信じて書いてる感じ。

   不謹慎かもしれないけど、これが最後になるって限らなかったのに、結局この五句でっていうのがドラマチック。

   そういうドラマって、起こそうと思って起こせるものじゃないよね。星野立子が「雛飾りつつふと命惜しきかな」って詠んで、本当に三月三日に亡くなったとか。真砂女さんも…

   やっぱ、もってる。

   もってる。と思って、前月、前々月を振り返ると、この五句ほど、最後って感じがしない。

   そうですね。

   うんうん。

   そこで「生涯を恋にかけたる桜かな」。

一同   きたかあ(笑)

●「もってる」人

   はなさんおすすめ4句目の「くちびるの荒れて熱引く二月かな」はどうですか?

   そうねえ、たぶんねえ、全体的に、とるときに自己愛の強いものって、根本的な好みとしてひかれてしまうってところがあって、この句は、全部が自分から出ていく感じ?全部自分から出て行って、二月からまた新しく春がはじまっていく話だからっていうのもあって、全部出てってまたはじまるって感じが好きなのかな。

   もう、ちょっと、「恋をしなくなった私」感なのかなって思ってた。くちづけは遠いことだよ、的な。でも、最後が二月でしまってるから、水分でていく感っていうのは、なるほどって。

   完全に、自分のからだに集中してるっていうのがいいなって。

   くちびるのつややかさを代償として熱がさがったってかんじ。「荒れて熱引く」ってつなげると。「柿喰えば鐘が鳴るなり」みたい?なにかしらをつねにちょっとずつ差し出しながら、ちっちゃいハードルをこえていくっていうかんじなのかな。生きていくって。

   五句見ると、最後らしい句の集まりになってるってのが凄いよね。やっぱり、もってる。

一同    もってる(笑)

   じゃあ、「もってる」てことで、いったん、このへんで締めたいと思います。作家性を「もってる」ってこと、その強みですね。

(〈さはる〉座談会「季語別 鈴木真砂女全句集を読む」終)

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