春ゆふべやさしく叱りてもなみだ   明隅礼子

吾子俳句の連作中の一句であることから、この〈なみだ〉は子のものであると読める。
厳しく叱ればもちろんのこと、〈やさしく〉叱っても泣かせてしまうというあるある句。
叱られるようなことをしたという自覚が持てるようになったからこそ、泣くのだろう。
子も親も途方に暮れる気持ちを〈春ゆふべ〉がなんとも美しくあたたかく包み込む。
連作であり、また作者のプロフィールが分かっているため、吾子俳句である、と書いたが、
もちろん、よその子のことかもしれないし、フィクションであっても、詠めるし読める。
吾子と読むと、叱っている人と泣いている人の距離感がはっきりしてより読みやすくなるだろう。

吾子俳句(と分かるように作ってある作品)は、いわば親俳句でもある。
単純にモチーフとしてわが子を詠んだものという側面はもちろん、
いかに詠むかということでどういう親か(でありたいか)ということをもみせてしまっているのだ。
とはいえ。
ふつうの俳句、たとえばいわゆる「季語俳句」であっても、
作者の自己アピールは大いに見える。アピールしませんというアピールの方がうるさいほど。
吾子俳句が特別なのではなく、俳句に、創作全般にそういう性質があると言えよう。

読者としては、
作者と作品を結びつける読みと、作者と作品を切り離す読みの、バランス感覚を養っていきたい。

「ゆりかご」(『俳句 7月号』角川学芸出版、2010)より。