「海を見せる」という寺山修司の詩では、海を知らない病気の少女のために、まっさおな海を見せてあげるため、少年のぼくは、バケツに海水を汲んでくる。その全然青くない海の水を見て、少女は「うそつき」といい、ぼくは「たしかに、さっきまでは海だったのに!」と嘆じる。
生駒の句の「海ちぎりとり」には、寺山の詩と同様、「海」という語の肥大化が起こっている。私たちは日常、海全体を「海」と呼び、そこから汲んだりちぎれたりした水のことを「海」とは呼ばない。でも、「さっきまでは海だった」と言い、「海ちぎりとり」と言うとき、そのほんの一杯、ほんの一握りの水が、一つの海そのもののように、凝縮した輝きとして、眼前にきらめく。
さらには、そんなちっぽけな水のかけらを、海だと信じている主体の、視野が狭いゆえの切実な心が、読む私の胸を打つのだろうか。
寺山の詩は、少年が少女の信頼を損なう、喪失で幕を閉じるが、生駒の句では、掌に月日貝が残る。
「ちぎりとり」の小さな暴力によって獲得した、失われた海、失われた時間のひとかけら。
月日はめぐり、命は失われても、最後に、掌に月日貝が残る。世界はそういうものかもしれない、などと、この人の世界観を、漠然と信じたくなる、そんな力に満ちた句。