桜漬載るあんぱんを義母へ割く   神野紗希

トンネル長いね草餅を半分こ  紗希(『光まみれの蜂』)》と詠んだ紗希が、〈義母〉と〈あんぱん〉を分け合う句も詠む。
《草餅》の句と比べて、この〈あんぱん〉は完全な《半分こ》ではないだろう。
母ではなく義父でもなく〈義母〉。この絶妙な距離感としての〈義母〉のリアリティ。分け合うくらいには親しく、割ってもらうほどまでには甘えていない。そして〈桜漬〉をきっちりと分けることはなかなか難しい。たぶん〈桜漬〉はまるごと〈義母〉へ分けたほうに載っているし、大きさにも《半分こ》以上の配慮があるだろう。配慮をしました、と書かないからこそ伝わる配慮や関係性が〈義母〉〈桜漬〉にはある。
きちんと〈桜漬〉が載っている〈あんぱん〉は、きっとちゃんと美味しいし、少しよそゆきだ。この、少しの塩梅が春の空気と溶け合って、ナイーブな明るさというものを生み出している。

「飽きて」(2017.3)より。