初旅や雲かがやいて雲の中  涼野海音

「雲かがやいて」と中七まで読んだときには、この雲が、青空をほしいままにしている唯一無二の雲に見えるが、その認識が下五でさっと拭われる。輝く私の雲は、より大いなる雲の中に包まれていたのだ。雲というひと群れを、大いなる雲と、その中にひときわ輝く雲との二つに分けて捉える感覚から、後藤夜半の〈滝の上に水現れて落ちにけり〉や、長谷川櫂の〈春の水とは濡れてゐるみづのこと〉などをふと思い出したりもする。初旅のめでたさを「かがやいて」で寿ぎつつ、年月の運行というより大きなサイクルへの畏敬の念を「雲の中」の下五にひろびろとこめた。下五の裏切りが心地よい。

「俳句四季」2017年7月号掲載、第5回俳句四季新人賞受賞作より。

選考会でも高野ムツオさんが「インパクトには欠けますが全体的に纏まっている」とコメントしているが、海音さんの俳句は勘所をおさえてどれもちゃんと的に当たるし大きな逸れ玉はないかわり、何か最大公約数的な穏やかさに物足りなさを感じることがある。今回の作品で具体的にいえば〈日輪のかすかに暗し青芒〉の「かすかに」、〈記念樹に傷ひとつあり鳥渡る〉の「ひとつあり」などが弱いのでは。すでにある俳句の言葉で一句を作れてしまう能力が備わっているだけに、もうひと練りの自分の言葉が生まれる前に、一句が俳句らしい顔をしてしまうという感じ。

逆に〈あたたかや畳に拾ふ貝ぼたん〉〈東京の地図に雨つぶ星祭〉などは、公式に回収されない偶然性(ただのボタンではなく「貝ぼたん」であること、雨つぶが降ってくる地図が「東京の」ものであること)が輝いている句だ。少しだけいびつになって尖ったところが、きらきらとよく光って心に残る。支配しきれない偶然性を抱き込むとき、海音さんの俳句はもっとも輝く。