白居易も李白も死んだ秋死んだ  風見奨真

中国古来の陰陽五行説では、白は秋の季節と対応する色。中国を代表する詩人である白居易も李白も、その名に「白」を持つ。二人とも、もちろんすでに故人。そのいにしえの詩人を恋うて、芭蕉も珠玉の言葉を連ねた。その芭蕉も死んだ。人はみな死ぬ。その無常観を象徴するのが、秋という季節でもある。その秋の無常観を嘆き、人生の無常を嘆いた詩人たちも、次々に自然の摂理に従ってこの世を去った。私もまた、いずれ死ぬ存在として、過ぎ行く秋に、声をあげざるを得なかった。そんな切迫した響きが、「死んだ」のリフレインから広がってゆく。

ちなみに、白居易は9月8日、李白は10月22日に亡くなっているらしいから、事実関係とも齟齬をきたさない句。

「秋死んだ」をどう捉えるか。
二人とも秋「に」死んだのか、二人が死んだ秋「も」「が」死んだのか。私は後者を――「死んだ」の主語を秋だととりたい。白居易が死に、李白が死んだ秋という季節もまた、今、死んだ。詩人と秋という別カテゴリーのものを並べているのがユニークだ。
つまりは冬が来るということだし、季節は来年になれば蘇る。いや、そうだろうか。この今年の秋は、やはり今年にしかなく、季節が循環するというのは嘘で、この秋は永遠に死んだままなのではないか。二人の詩人がもう二度と生き返らないように。

なんて、ちょっと暗い感じにとってみたけれど、「また来年になれば季節がめぐってくるように、白居易や李白の詩もまた、永遠に読みつがれるだろう」みたいなほのぼの解釈よりは、今まさにとりかえしのつかない死を見送っている切迫感を受け取ったほうが、リアルな秋の心情に近いんじゃないかと思う。

「死んだ」という口語過去形からは、ニーチェの「神は死んだ」を思い出したりもして。

海城高校文芸部「本の蟲」特別号句集「句蟲(くちゅう)」(2016年)より。