残業の妊婦ゆつくり蛾を跨ぐ 小林恭子

「ゆつくり」なのは、おなかが大きくなって、からだが重く、歩きにくいから。
「蛾を跨ぐ」のは、その小さな命を奪うことを無意識に避けているから。

そういえば、妊娠中は、ダンゴムシとか蜂とか、道端に虫の死骸が転がっているのを見るのが、むしょうに苦しかった。今はなんてことはない、別に日常的な風景だと思うが、その頃は小さな命の死に、揺れている胎の子の命の不安定さを重ねていたのだろうか。なんて、理屈で考える前に、感覚的に、辛かった。だからきっと、この妊婦も、蛾を助けてあげようなどと浦島太郎的な友愛精神を引き起こしているのではなく、おそらくは無意識に、蛾を跨いでいる。その無意識下の心の動きを、作者が(自分のことだったとしてもそれを客観的に)すくい上げたところに、この句の深みがある。闇の中を、ゆっくり歩む妊婦。蠢く蛾が、残業に疲れた心の澱を代弁するか。

個人に合った働き方がなかなか許されない、日本の過剰な労働現場で、仕事も家庭も両立させようと、しずかに奮闘する女の体重を感じる。まさに、今ここ、現代をうつしとった句。

「NHK俳句」6月号、兼題「蛾」投稿欄入選句より。