捨猫や桐の花ふる生垣に  樫本由貴

捨猫。桐の花。生垣。なんでもない風景だが、忘れられない風景に思えるのは、日本で永らく高貴の象徴として用いられてきた桐のイメージが寄与しているのかもしれない。桐の花の淡いむらさきに、捨猫のかなしみがにじむ。

「週刊俳句」537号(2017年8月6日)特別作品30句「緑陰」より。

8月6日、広島原爆投下の日に掲載された連作は、この句から始まる。捨猫は、捨てられている点で見過ごされている存在であり、生きているという点で、命の象徴でもあるだろう。見過ごされてきて、なお、生きている/生きていた者。広島を語るのに、彼女はここから始めた。桐の花が咲くのは4月の終わりから5月のはじめ。原爆を語るとき、今日8月6日のみにフォーカスするのではなく、(あの、そして、この)夏の到来から語り始めることによって、失われた者たちが、当たり前に普通に生きていた時間に、思いを馳せることになる。そして、連作は今日で終わらない。立秋、七夕、萩……秋の風景とともに、以後が描かれる。それは、死で終わるのではなく、生が続いてゆくということ、生きていくということ。くりかえしてはならない惨禍の起きた広島で、くりかえされてきた季節と人々の呼吸が、しずかに線描された30句だった。

原爆ドームの奥を撮る子や苔の花
あをぎりの裂傷鳥のこゑのなか
かつて爆心いまは入道雲のうら
空蝉がゐて被爆樹の添木かな
八月をみな旅人のかほをして