【79】たんぽぽよ広告会社一筋に     坪内稔典(例句)

丸山和也編著『臨終デザイン』(明治書院、二〇〇六)の一句。
本書は遺言書の書きかたや葬儀のしかた、お墓のつくりかたなど、自分が死ぬ前に行っておくべきさまざまな「生前準備」のハウツー本である。七章からなる本書の第五章は藤田敬司による「自分史」の書きかた(「生きた証を残したい~「自分史」の書き方・まとめ方」)となっているが、そこに次の一文がある。

幼い頃から現在に至る体験や思いを詠ったり読んだりした詩や短歌、俳句なども、広い意味では「自分史」の領域に入るものといえるだろう。

そしてこの章に続く第六章では坪内稔典が「『辞世の句』を作ってみよう」と題して辞世の句のつくりかたを指南している。

辞世の句を作ろうというときもなかなか自分のことだけで作るのは難しい。だから、歳時記を手元に用意して、まず季語を考えて、それと何かを組み合わせる。それは、自分の仕事のことでも、家族のことでも、生まれた国のことでもよい。それと合わせていけばすぐにできる。歳時記では季節ごとに言葉が分かれているので、きれいな言葉、いい言葉、使ってみたい言葉を見つけて、それを使って作る。

坪内は「きれいな言葉、いい言葉、使ってみたい言葉」としての季語と「自分のこと」とを取り合わせて辞世の句を詠むことを提案する。取り合わせによって詠む方法は辞世の句に限らず、今日の入門書の多くが初心者に勧める方法である(一物仕立てによる句作りを勧める『これからはじめる俳句入門』(星野椿著、ナツメ社、二〇〇八年)などは例外であろう)。
本書では坪内の編集した『一億人のための辞世の句』(蝸牛社、一九九七)所収の句のほか坪内自身が詠んだ例句を用いて「辞世の句」指南が展開される。

たんぽぽよ広告会社一筋に
自分が広告会社一筋に生きてきたと、それとたんぽぽを組み合わせるとこうなる。
次に、たんぽぽ以外のものがいいかもしれないなと考えてみる。
薔薇百本広告会社一筋に
このように、次々に取り合わせを変えていく。そうするとやがて自分にとって比較的満足できるものにぶつかる。こうありたいという世界のようなものが、取り合わせを変えることによって、見つかってくる可能性がある。

おもしろいのは、坪内が取り合わせによって「自分にとって比較的満足できるもの」「自分の気持ちにぴったりくるもの」を探すことを重視している点だ。ここでいう「自分」とはいうまでもなく死を意識した自分であって、その「自分」の満足のいくものであればそれでよいということなのであろう。考えてみればこれほど極私的な句作というものはそうあるものではない。たとえば、坪内は例句として上五に「たんぽぽよ」と「薔薇百本」を据えた二句を提示しているが、このどちらが良いかということは言わない。それは、言わないのではなく、言えないからなのであろうし、また言う必要がないからであろう。もちろん、「たんぽぽよ」と「薔薇百本」とでは句意もおのずと違ってくる。実際「たんぽぽよ」の句は野に咲くたんぽぽの健気さや素朴さ、地に根をはった慎ましやかな強さを「広告会社一筋に」生きた人生に想起する句になっているが、「薔薇百本」の句では「広告会社一筋」の真面目な人生にもう少し華やかな趣が添えられていよう。けれど、「たんぽぽよ」と「薔薇百本」のどちらが良いかということは「自分」以外に判断できることではあるまい。仮に第三者によって「薔薇百本」よりも「たんぽぽよ」の方が優れているとする判断がなされたとしても、「自分の気持ちにぴったりくるもの」を詠むという坪内流の辞世の句の詠みかたに即すならば、その判断は本来大きな意味を持つものとはなりえない。坪内はまた次のようにもいう。

 いたずらはついでの仕草つゆの草    松浦敦子
 というのもあるが、これなどどこが辞世なのかわからない。ついでにいたずらをした。そこに露草が咲いているというのだが、露草は可憐な花なので、いたずらもかわいかったのだろうなと思い、この人のいたずら好きでかわいい姿が思い浮かぶ。しかし、この句を別の場で出せば、だれも辞世とは扱わないだろう。しかし作者がこれが私の辞世だといえば、何でも通用してしまう。
 作り手が辞世として作るだけではなく、読み手も辞世の句として詠んで味わう。
 俳句はそこがいいのではないかと思う。

「読み手も辞世の句として詠んで味わう」というように、ある情報を付加して句を読んでいくという方法は、ある意味で不純なものであるようにも見える。しかし楽屋落ち的な性質を含まざるをえない辞世の句においては、この不純さこそ醍醐味たりうるのではあるまいか。いわば内輪向けの句としての負い目を忘れて読むということ。そもそもある人の辞世の句を読むという行為がもたらす読みとは、誰にでもわかるものではないはずである。その読みは極私的で、それゆえにこそ切実さを増すのである。「自分の気持ちにぴったりくるもの」を詠むのが辞世の句の詠みかたであるならば、「自分の気持ちにぴったりくる」ように読むのが辞世の句の読みかたであろう。
本書にはお墓のつくりかたのノウハウも記されているが、そのなかに次のような記述がある(長江曜子「すてきな〝終の住処〟お墓の創り方」)。

故人が亡くなってから建墓した例が、A家である。Aさんの夫は自衛隊のパイロットで、勤務中に不幸にして事故死した。Aさんは、夫の宇宙、空へのあこがれと職業の誇りを何よりも大切にしたいと考えた。そのため、自衛隊の基地付近の千葉県の民間霊園に墓を購入した。外柵の左側の羽目石をベンチ型にして、墓参のときに基地から飛び立つ航空機をゆっくり見られるようにした。墓石も飛行場に向けられ、青空をイメージしたフランスブルーの御影石で洋型に作られた。石造りで、飛び立つファントムの模型が墓石の正面に取り付けられた。その背景の雲の上に三本の軌跡(妻と二人の子どもを表現)を彫り、花立は噴射口の形で作り、墓碑銘は妻の言葉で、Until we will meet againと英語で刻まれた。

こうした例を見ると、建墓する/墓参するということと辞世の句を詠む/読むということの間にはどこか共通するものがあるように思われる。すなわち、これらはどこまでも内輪向けで、それゆえにあまりに切実な行為なのである。しかしその一方で、それらの行為を媒介するもの(あるいはその行為の結果としての)句や墓碑が、その表現のありようについて第三者の一切の批判の許されない対象ともなっていることの是非については、どのように考えたらよいのだろうか。